第十一話 セントバレーヌでの一幕
ヴェールガ公国の飛び地、独立港湾都市セントバレーヌの一角に、その建物は建っていた。
まるで、王族の住まう城のように荘厳で、巨大な建物、それは商人たちによって建てられ、ヴェールガ公国へと献げられた神殿だった。
そんな神殿の敷地内、神殿そのものよりは少し劣る館が建っていた。
それは、ヴェールガ公国から派遣されてきた司教が住まう邸宅。
神殿管理の職をも兼ねるこの館の住人こそ、聖女ラフィーナに諫言した恐れ知らず、マルティン・ボーカウ・ルシーナ司教であった。
ヴェールガ国内に領地を持つ伯爵でもある彼だが、普段はこのセントバレーヌに家族とともに住んで職務にあたっている。
彼が、この地におけるヴェールガの権威を背負う立場である以上、当然、一般人が会うのはなかなか難しい人物ではあったが……少々、事情に詳しい人間であれば、方法がないわけではなかった。
抜け道は、わかりやすく用意されていた。単純に多少の金貨を積めばいいのだ。
商人の支配するこの独立都市において、金は力でルールだ。そんなわかりやすいルールに、この司教もまた縛られる人である……と一般的には思われていた。
そして、この日も、その慣習を知る男が、ルシーナ司教を訪ねてきた。
招き入れられた館の中で、男は愛想よくルシーナ司教に頭を下げた。
「ほう。なるほど。ミラナダ王国からいらっしゃった商人の方ですか」
問いかけに、男はへこへこ、と頭を下げる。
「はい。この地に来たからには、まず、ルシーナ司教にご挨拶差し上げねば、と……」
男のおべっかを聞き流し、ルシーナ司教は言った。
「商人ギルドへの顔つなぎ、ですか……」
紹介状に目を落とすルシーナ司教。すると、チャリン、と金貨がこすれる音が、耳に入ってきた。
目を上げれば、男が小さな袋を机の上に置いていた。音からして、おそらく中身は金貨だろう。
「どうぞ、お受け取りください」
「…………これは?」
「献金ですよ、献金。教会でやり取りするお金なんか、それしかないでしょう?」
「神への捧げものならば、どうぞ、神殿の献金箱へ入れてください」
「いやぁ、これは『特別な献金』ですので、ぜひ、ルシーナ司教に直接お渡ししたく……」
男は、そう言って執拗に金貨の入った袋を押し付けてくる。
ルシーナ司教は、チラリとその中身に目をやってから、小さく頷いた。
「わかりました。それほど特別な献金だというのなら、私のほうで神にささげておきましょう」
そうして、ルシーナ司教はその小袋を自らの懐に入れた。
「しかし、ミラナダ王国であれば、私などではなく、シャローク・コーンローグ殿にでも頼ればよろしいのではありませんか?」
シャロークはミラナダ王国出身の大商人だ。しかも、セントバレーヌを活動の拠点にしているため、影響力も持ち合わせている。
郷里の先輩商人を頼るのが筋ではないか? との問いかけに、男はへらへらと笑った。
「あの人は、もうダメですよ。すっかり慈善事業とやらに目覚めてしまったみたいで。ティアムーンのお姫さまにすっかり骨抜きにされちまった。今じゃ、ただの好々爺って感じでさ」
「なるほど。帝国皇女ミーア姫殿下ですか。セントバレーヌの商人たちの中にも、彼女を支持する者は多い」
「ははは。まぁ、そちらのほうが商売に有利だってんなら、俺だってミーア姫殿下を礼賛してみせますがね」
恐らくは、セントバレーヌの利権に食い込みたい新興の商人……。もしくは、それに擬態した何者か……か。
静かに男を観察したルシーナ司教は穏やかな笑みを浮かべる。
「なるほど。商人の方たちはしたたかでいらっしゃる。ですが、礼賛の言葉は、まず神にささげるべき……と私は告げなければならない立場でしょうね」
「無論、商売に有利になるならば、惜しみなく賛美をささげますよ」
上機嫌に言う男を、ルシーナ司教は黙って見つめていた。
さて、男が帰った後、ルシーナ司教は執事を呼んだ。
「なにか、ございましたか?」
やって来た執事に彼は、恭しく金貨の入った小袋を渡す。
「司教伯さま、これは……?」
「先ほどの男が持ってきた『特別な献金』だそうです」
「賄賂……ですか。また受け取られたのですか?」
露骨に顔をしかめる執事に、ルシーナ司教は厳格な口調で言った。
「献金は献金。神にささげられたものにして、神が我らに『使え』と与えたもうたものです。粗雑には扱えないでしょう。が……神殿の献金箱を汚す必要もないか」
彼は静かに頷いて……。
「その金貨は当家の必要のために用いることにしよう。代わりに、本国から送られてきた私の給金から同額の金貨と、銀貨一枚を加えて献金箱に入れておいてください」
金貨に汚れが宿るという教えは神聖典にはなかった。だから、それを自分の懐に入れ、代わりに同額を別のところから捧げることに、特に意味などないし、そこに銀貨一枚を上乗せすることにも決まりはなかった。
献金箱の中身は、そのままヴェールガ本国に送られ、各国の教会に分配される。そこで、孤児院の運営や、慈善活動に用いられるわけで……。だから、必要な場所に届くころには、それはただの金貨になり、ささげた者の気持ちなど微塵も残らないだろう、とは、ルシーナ司教自身も思っている。
だから、それはあくまでも、ちょっとしたこだわりで、気持ちの問題で……けれど、侵しがたい彼自身のルールであった。
「かしこまりました」
恭しく頭を下げる執事に、ルシーナ司教は続ける。
「それと、息子を……リオネルを呼んでください。少し話があるので」
それだけ言うと、彼は、紹介状に改めて目を落とした。
「ミラナダ王国、か……」
待つことしばし、部屋にノックの音が響く。
入ってきたのは彼の長子、リオネル・ボーカウ・ルシーナであった。
次の春からセントノエルに入学する予定の息子に、ルシーナ司教は、静かな声で言った。
「リオネル」
「はい、父上」
「セントノエルの生徒会長の座を、必ず奪還しなさい」
父の言葉に、リオネルは元気よく頷いた。
「はい。ラフィーナさまを誑かした魔女の手から、必ずや、セントノエルの生徒会の座を取り戻してみせます」
意気込む息子に、ルシーナ司教は厳しい口調で告げる。
「言葉は正確に、そして、大切に使いなさい。魔女などと言う言葉を気安く使ってはいけない。それは、ある者たちを虐げ、傷つけ、殺す言葉になるだろう」
父の指摘に、リオネルはビクンっと肩を跳ねさせた。
「恐らく帝国のミーア姫は聖女ではないが魔女でもない。彼女は『人』だ。一貫した邪悪さを持たぬ、善にでも悪にでもなる、気まぐれな『人』に過ぎない。他の王族と変わりはしないでしょう」
ルシーナ司教は、そうつぶやいて首を振った。
「だからこそ……我らは神の威光のもとに、セントノエルを取り戻さなければならない」
つぶやくように、彼は言うのだった。