第九十三話 セロ・ルドルフォン
セロ・ルドルフォンにとって、姉は世界で一番信頼を置いている人だった。
花を育てることが好きで、本が好きで、勉強が好きだった彼は、対照的に運動がとても苦手だった。
領主に求められる乗馬や戦など、彼ではとてもではないがこなせないと思われていた。
肩身の狭い思いをしているセロに、けれど、姉のティオーナは優しく接してくれた。
「セロは勉強ができるんだから、きちんと学校に行って勉強しないとダメだよ」
そう言って、いつもセロを励ましてくれた。
そんな姉が外国のセントノエル学園に行くと聞いた時、セロはとても心配だった。
「私じゃなくってセロが行ければよかったのに」
なんて、姉は言っていたけど、そんなことどうでもよかった。勉強は確かに楽しいし、もし行けるものなら行ってみたいとも思うけど。
それよりなにより、姉が大貴族の子弟であふれる学校に行って、いじめられずに済むのか、そればかりが心配だった。
だから、夏休みに帰ってきた姉が、とても元気そうなのを見てホッと安心した。
それだけではない。姉の交友関係を聞いて、彼は驚いてしまう。
かのサンクランド王国のシオン王子や、ミーア姫殿下と友誼を結んできたというではないか。
「ミーア・ルーナ・ティアムーン皇女殿下……かぁ」
セロは別にミーア姫殿下に対して、良いものも悪いものも、特に感情を持っていなかった。
――わがまま姫っていう人と、帝国の叡智ってほめる人といるけど、どっちが本当なのかな……。
せいぜいがそのぐらいの興味だった。
けれど、ルールー族とベルマン子爵の一件を、ほかならぬ姫殿下が解決したと聞いて、少しだけ興味を持ち出したのだ。
「さすがはミーア姫殿下だな。血も流さずにこの件を治めるとは見事だ」
「でも、父上、いいの? 土地を不当にとられちゃったのに……」
「不当……なことではないな。帝室の方々には、そうした権限が与えられている。まぁ、我々としては面白い話ではないが……」
そう言う父の顔は、けれど、決して不快げではなかった。
「それにな、民が苦しまずに済むのであれば、悪いことではないさ」
ルドルフォン家は、もともとこの地に住まう農民たちのリーダー格だった。普通の貴族以上に領民に対しての情が深い。
しかもルールー族とは、かなり古い時代から友好関係を築いている。そんな彼らが傷つくことなく事態が治まったのだから、満足すべきことではあった。
「へー、そうなんだ……」
セロは、素直に感心した。
父の言葉もそうだが、姉も、従者として付き従ったリオラも、ミーアのことを好意的に話しているのも大きかった。
いつしかセロの中で、ミーアは素晴らしい、聖女のような少女になっていった。
そんな皇女殿下が、なんと、ここにやってくるという。
「ミーア姫殿下はなにをしにくるの?」
そう尋ねるセロに、父はもちろん、ティオーナも困惑気味だった。ルドルフォン辺土伯爵家は、まごうことなき貧乏貴族だ。
好んで帝室の姫が足を運ぶような場所ではない。
「恐らくは先日の森での一件についての話だとは思うのだが……」
自信なさげな父のつぶやき。一方、
「確かにお手紙は出したけど……まさか直接いらっしゃるなんて……」
驚きつつも、どこか納得した様子の姉の姿があった。
「姫殿下らしいわ」
そう微笑む姉の姿を見て、
――ああ、もしかすると姉さまのところに、あそびにくるのかな?
セロはそう判断した。
いずれにしても、用があるのは父と姉。自分はあんまり関係ないんだろうな、と判断して、セロは日課にしている花壇の水やりに向かった。
公的な訪問であれば一族で迎える必要があるが、お忍びで遊びに来るのであれば、恐らくは必要ないだろうと思ったのだ。
――それにしても、姉様すごいなぁ。ミーア皇女殿下とお友達になるなんて。
そんなことを思いつつ、咲き誇る花に目をやる。花の手入れはなかなかに大変だ。
ただ単純に水をやっていればいいというものではない。一本一本の様子を見て、栄養が足りているか、病気になっていないか、チェックしていかなければならない。
そんな風にして、集中していたから……、セロは気づかなかった。
「あら……、なかなか素敵なお花ですわね」
自分のすぐそばに人が立っていることに。
びっくりして振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。
美しい少女だった。
艶やかに輝く髪、健康的な張りのある肌、切れ長の瞳には、どこか知的な輝きが宿っていた。
驚いて固まるセロをしり目に、少女はわずかに膝を曲げて、花に手を添えた。
「これは、月蜜花……だったかしら?」
「あ、うん、そうです」
セロは少女の格好を見て、敬語を使うべきかどうか悩んだ。
彼女は、いわゆる貴族が着るような豪奢なドレスではなく、夏らしい身軽なドレスを身にまとっていたからだ。
貴族相手には敬語だが、領民だったらあまり丁寧すぎるのもおかしい。
悩む彼に答えを出してくれたのは、少女の従者の声だった。
「ミーアさま、そろそろ……」
「ああ、わかりましたわ……」
「……へ?」
セロ・ルドルフォンが生涯の忠誠をささげる相手との、これが最初の出会いだった。




