第二話 獅子を恐れぬ者
「帝国皇女ミーア姫殿下と親しくするのは、いかがなものか……と私は考えています」
そう言われた時……ラフィーナは一瞬、表情を消した。けれど、すぐに涼やかな笑みを浮かべ直す。それは、数多の場面でミーアを戦慄させてきた、あの笑顔だった!
「あら……なぜかしら? ルシーナ司教。ミーアさんは、とても素晴らしい方だと私は思っているのだけど……」
それから、ラフィーナはそっと胸に手を当てて、
「この大陸に住まう人々を安んじて治めよ、と……。神聖典の教えをよく守り、努力されている方よ? 貧しく弱き者に手を差し伸べ、悪を見逃さず、されど、悪人が正しき道に立ち返ることに尽力する。ミーアさんほど素晴らしい人を私は知らないわ。私は、ミーアさんと友であることを誇りに思ってる」
そう断言するラフィーナに、ルシーナ司教は首を振った。
「私もそのように聞いております。セントバレーヌにもミーア姫殿下の支持者はおりますゆえ。フォークロード商会や大商人シャローク・コーンローグ、彼らに与する者たちは、みなミーア姫殿下を支持している。それは存じておりますが……さてさて。それは本当か。素晴らしい人格者か、もしくは、そう振る舞っているだけか……」
「少し……ミーアさんに失礼なのではないかしら? ルシーナ司教」
ラフィーナの声が、わずかばかり低くなる。笑みを消し、静謐な表情を湛えたラフィーナは、それでも穏やかな声で言う。
「私は、ミーアさんの友人として、怒りを禁じ得ないところよ」
「ご不興を買うのは百も承知。そのうえで、あえて申し上げます。ラフィーナさま。皇女ミーアと、あまり近づきすぎるのは危険です。あるいは……ラフィーナさまが友として振る舞うことが、かのミーア姫殿下のお心を歪めてしまうことになるかもしれません」
「ミーアさんは、そんな人ではないわ」
「そうでしょうか? 歴史上、強大な力を持ったがゆえ……持ってしまったがゆえに、堕落した権力者というのは、枚挙に暇がありません。人の心は移ろうもの。今日、明日は友として尊敬できる人であったとしても、その次の日はどうか。権威は人を変えるのです」
ルシーナ司教は、あくまでも自らの考えを変えない。
「ラフィーナさまが、友人として振る舞うこと自体、かの皇女殿下を変えてしまうかもしれない。どうかご理解ください。ラフィーナさま。あなたは、ヴェールガの聖女。その名には権威があり、その行動には常に責任が伴うのです」
「そんなこと……もちろん、わかっているわ」
改めて告げられた言葉に、ラフィーナの顔がかすかに曇る。そこに浮かぶのは、隠しようのない寂しさだ。聖女の孤独、友を持てない寂しさは、いつでもラフィーナを苛み続けたものだった。が……。
「いずれにせよ、皇女ミーアが、ラフィーナさまの権威を得たくて近づいてきたかもしれない、と、その疑いは持っておいたほうがいいでしょう」
その言葉に、カチンとくる。
今のラフィーナは……すでに、かつてのラフィーナではなかったからだ。
ガラス細工のように清廉な聖女ラフィーナは、すでにいない。友を知り、恋を知った彼女は、どうしようもないほどに、ミーア色に染められてしまっていたのだ!
ゆえに……。
「酷いのよ! ミーアさんが、私の権威を笠に着るためにお友だちをやってるだなんて、本当に、本当に! 馬鹿にしているわ!」
ぷりぷり怒るラフィーナである。その口調からは、かつての近づきがたい迫力はすでになく……。それゆえ、ミーアは落ち着き払って、そのお話を聞いていた。
「本当ですわね。馬鹿にされたとは思いませんけれど、わたくしが、ラフィーナさまの権威を利用するなどと……根拠のない出まかせで、まったく呆れてしまいますわ」
などと、しみじみと頷くミーアである。のだが……。
実際には、わりとラフィーナの威を借る小心者的な振る舞いをしがちなミーアであるが、そんなことは、記憶の彼方に放り捨てて、思い出すこともないのである。いつものことである。
ラフィーナは、気持ちを落ち着けるように、お茶を一口。ふぅ、っと細く息を吐き……。
「ところで、ミーアさんのほうは、どうだったの? ヴァイサリアン族のこと……ガヌドス港湾国でどんなことがあったのか、教えてくれないかしら?」
「ああ……そうですわね。確かに、ラフィーナさまにもお知らせしておいたほうがいいことでしたわ。ええと……あ、アンヌ、例のものを……」
ミーアの指示に従い、アンヌが素早く部屋を後にする。
「まず、結論から言ってしまうと、ヴァイサリアン族のことは上手く片が付きましたわ。ガヌドス港湾国のほうで受け入れてもらうことになりまして。オウラニアさんが上手く事を運んでくださいましたわ」
ミーア、しっかりとアピール。クレームが来た時にはオウラニアのほうに言ってもらうよう、念入りに根回ししておく。けれど、
「そう……。オウラニアさんが……。さすがね、ミーアさん」
――んっ? 妙ですわね。なぜ、そこでわたくしに繋がるんですの……?
などと首を傾げるミーアである。
「けれど、少し不安だわ。国の上層部がそう決断したとしても、民がそれを引き受けてくれるとは限らない。それに、王の目が、民のすべてに及ぶわけでもない」
「ああ。その件も問題ありませんわ。あ、でも……」
っと、そこでミーアは思い出す。共同研究施設のこと、ラフィーナに許可を取っていなかったことを……。
「申し訳ありません。ラフィーナさま。これは事後承諾になってしまうのですけれど……。例のセントノエル学園とミーア学園の共同研究施設をガヌドス港湾国内に作ることを、許可いただきたいのですわ」
「あら、共同研究所を……? ああ、なるほど。それにより、ヴェールガ公国と帝国の目を、街中に光らせようということね?」
「ええ、その通りですわ。いざという時には、ヴァイサリアンの民が逃げ込める場所を用意する。それに、そのような施設が国内にあると思うだけで意味がある。ガヌドスの民は、自らの行いに気をつけることでしょう」
「なるほど……。それに、海に棲む魚と湖に棲む魚、川に棲む魚はそれぞれ違うのでしょうから意味はある……と。そういうことね」
ラフィーナの指摘に、重々しく頷くミーア。
「さすがね、ミーアさん。見事な沙汰だわ」
パチパチと嬉しそうに拍手するラフィーナ。ちょうどそのタイミングで、アンヌが入ってくる。
「ああ、ちょうどよろしかったですわ。見本として、海の食べ物をいくつかお土産に買ってまいりましたの」
そんなミーアの言葉で、お皿の上に視線を移したラフィーナ、その笑みが、次の瞬間、かっちーんと固まる。なぜなら……。
「これが、とっても美味しかったんですわ。女王烏賊の干物と言いまして、噛めば噛むほど味が出る。一品ですわ!」
お皿の上に置かれた平べったい……にょろにょろとした足がたくさんある生き物に、一瞬、クラァッと眩暈がしてしまうラフィーナであった。