第百二十九話 その意味を考えて……
さて、ミーアたちが帝国へと帰る日のこと。
貧民街の教会に二人の子どもが訪ねてきた。ヤナとキリルの姉弟である。
「ヨルゴス神父……」
「お前たちか……」
日課である、教会堂前の掃除をしていたヨルゴスは、いつもと変わらぬ仏頂面でヤナたちを迎えた。
「今日、帝国に発つことになったんで、ご挨拶にきました」
ちょっぴりかしこまった口調のヤナ。かすかに緊張した様子の彼女を、静かに見つめてから、ヨルゴスは言った。
「どうだ?」
「え……?」
「ここに……ガヌドス港湾国に戻ってきたいか?」
その問いかけに、ヤナは瞳を瞬かせた。
「幸いにも、ミーア姫殿下のお計らいで、ガヌドス国内でのヴァイサリアン族の扱いは改善されるだろう。この孤児院に住むことも、あるいは可能かもしれない。生まれ故郷にいたいというのであれば、ここで面倒を見ることもできるが……」
その言葉に、ヤナは一瞬だけ考えた様子だったが、すぐに首を振った。
「お気遣いありがとうございます。でも……」
っと言い淀んだヤナに、ヨルゴスは、ふん、と鼻を鳴らした。
「まぁ、そうだろうな。セントノエルにいれば食うのには困らない。それどころか、豪勢な食事が用意されている。美しい建物、寝心地の良いベッドと、礼儀正しい子どもたち。その暮らしやすさに比べれば、故郷への郷愁などどうということもなし。こんな国には何の魅力もないし、今さらこの国に戻るなど馬鹿げたことに思えるだろう」
吐き捨てるようなヨルゴスの言葉に、ヤナの身体が強張る。思わず、うつむいた彼女の耳に……、
「……などと言う輩がいても気にすることはない」
「……え?」
顔を上げると、そこには、見慣れた、仏頂面のヨルゴスの顔があった。
「そんなものは嫉妬だ。耳を傾ける必要はまるでない」
それから彼は、真っ直ぐにヤナを、そしてキリルを見た。
「よく覚えておくことだ。セントノエルで学べるというのは類稀なる特権だ。衣食住の不安もなく、ただ勉学に打ち込める。それは、神の恩寵に等しきものだ。ゆえに、誤解をする者が多い。自らを特別な選ばれた者と……なにか偉大な存在なのだと誤解し、その特権を当然のものとして思いあがる。言うまでもなくそれは避けるべきことだ。が……」
っと、ここで、ヨルゴスが、なんとも言えない顔をする。どこか気まずそうに、口をムグムグさせるその顔が、彼の笑みなのだということに、ヤナは気がついた。
「だからといって、恵まれている自分を恥じたり、罪悪感を覚えたりする必要も、またないのだ。それを遠慮して受け取らないというのは美徳ではない。与えられた金貨を、自分のために使うのは申し訳ない、などと言って土に埋めてしまってはならない。それを無駄遣いすることは罪だが、使わずに埋めてしまうことも、また罪なのだ。望もうと望むまいと、金貨を与えられた物は、それをどのように使うかを、自分で考えなければならない」
「その金貨は、他の、困っている人のために使わなければいけない……ってことですか?」
「いいや、弟を食べさせるために使うとよい。あるいは、娯楽のために使ってはいけない、ということもない。目の前に空腹で倒れた人がいるなら別だがね。娯楽のために使って、絆を育み、心を養い、そして良きことを行う……そんな使い方だってあるだろう。だが……いずれにせよ、宝を与えられたら、それを使い、何を為すかよく考える必要があるということだ」
「……ミーアさまは、種を蒔く……って言っておられました」
「うん?」
「良い種であれ、悪しき種であれ、その刈り取りは自分ですることになる。だから、良い種を蒔けって」
「ああ……そうか。さすがは、帝国の叡智と称えられるミーア姫殿下だ。ハンネス殿が誇るだけのことはあるな」
ヨルゴスは深々と頷いてから……。
「その喩えで言うのなら、与えられた種はきちんと蒔きなさい。自分の心の畑に蒔いて、惜しげなく水を注ぎ、大切に育てなさい。良い種をたくさんもらったからと言って、その収穫が多いからと言って、そのことに気後れする必要はない」
まるで、歌うようにヨルゴスは言う。その低く澄んだ声が、ヤナにはとても美しいものに聞こえた。
「そして良き実りを刈り取り、多くの人に新たな種を分け与える、そのように生きなさい」
それから、彼は一度、教会の中に入った。汚れた手を洗い、それを布で拭きながら出てきた彼は、ヤナと、そしてキリルの頭に手を置いた。二人の前髪に、軽く触れてから、
「ヴァイサリアンの子どもたち、ヤナとキリル。お前たちが生まれたことには意味がある。ヴァイサリアン族として生まれたことにも、出会った人にも、与えられたものにも、その足が踏む土地にも。我ら人には、それぞれ生きる意味があるのだ。そのことを忘れないでいなさい」
優しく、二人の頭を撫でてから、彼は続ける。
「そして、もし、それが救いになるのであれば、この教会を家だと、故郷だと思いなさい。お前たちが、ここに、一晩とはいえ泊まったことにも、ここに帰ってくることが許されるようになったことにも、きっと意味があるのだから」
それから、ヨルゴスは、ヤナたちの後ろに向かって頭を下げる。
「この子たちのことをよろしくお願いいたします。ミーア姫殿下」
いつから来ていたのだろうか……。ヤナたちの後ろには、ミーアたち一行の姿があった。
ヨルゴス神父の言葉を受けたミーアは、なぜだろう……どこか弱々しい顔で、片手を上げて、答えるのだった。
……話は一日前。元老議会のとある場面まで遡る。