第百二十七話 火と水、風と土、知恵と命
「……で? どう思う、ルードヴィッヒ殿」
ミーアたちの背中を見送ってすぐに、ディオンは口を開いた。
「どう……とは?」
「いやだなぁ、先ほどの、我らが姫さんのお言葉さ。蛇の暗殺者と対面したこと、大した意味はない、と言っていたが……」
「どうだろうな……ミーアさまのお考えは、多岐にわたる。そのすべてを把握することは、当然できないが……。いくつか、思い当たるものはある」
「聞かせてもらえるかな?」
その言葉には即答せず、ルードヴィッヒは辺りを窺う。聞き耳を立てているような者はいなかったが……念のため、少しだけ声のトーンを落とす。
「一つには、ガヌドス港湾国への備えだ。あの男を仲間につけられればネストリ陛下への権勢になる。オウラニア姫殿下への配慮もあるだろう」
「だろうね。実際、オウラニア姫殿下の心情は読めないから、あの男を懐柔できるなら、そうしておいたほうがいいだろうね」
「それに、あの男はヴァイサリアンだ」
もし、王が助命を訴えなかったとしても、あの男を処刑することはあり得なかった。もしそんなことをすれば、再びガヌドスとヴァイサリアンとの間で軋轢が生まれるだろうから。
「そういう意味でも、まぁ、味方につけておいたほうがベターではあるだろうね。しかし……それは、あくまでも副次的なもの、とルードヴィッヒ殿は考えているんじゃないかな?」
探るようなディオンの視線に、ルードヴィッヒは思わず苦笑いだ。
「さすがはディオン殿。お見通しか。ああ……そうだな。俺には……」
っと、ルードヴィッヒは眼鏡の位置を直しつつ、
「あれは……一つの試みに見えた」
「試み?」
「そう。蛇と人間とを切り離すため、あるいは、蛇がかけた呪いを解くための言葉かけ、とでも言うべきだろうか……」
「カルテリアの母すら、蛇の犠牲者である、と伝えて、奴を蛇という感染思想から切り離そうとした……か」
「今のところ、蛇の関係者のほとんどはヴェールガ国内に幽閉されている。そして、彼らを改心させるために、ラフィーナさまお一人が動いておられるが……。ミーアさまは、それを手伝おうとされているのではないだろうか?」
それから、ルードヴィッヒは、ミーアからお土産のことについて尋ねられたことを明かす。
「髪飾りはともかくとして、干物や、いくつかの食べ物は……おそらく、ラフィーナさまを元気づけたくて選んだものだろう」
「なるほど。てっきり珍味類は姫さんの趣味が悪いだけかと思ったけど、滋養強壮のため、と考えれば納得がいくか」
「それでも、さすがに、ウミヘビを酒に漬けたものなんかは、俺のほうで止めておいたが。ふふふ、ミーアさまも、さすがにどんなものかはご存じなかったのだろうな」
こうして、ギリギリの……本当にギリギリのラインで、ラフィーナへのお土産は、ラフィーナが食べられるもの(食べ……られる?)がセレクトされたのだった。
さて、そんな風にして盛り上がる二人に、声をかける者がいた。
「やぁ、お二方。おね……パティ嬢はご一緒ではなかったのかな?」
優雅な仕草で頭を下げるのは、ハンネス・クラウジウスであった。
五十代の半ばであろう彼であったが、その見た目は青年であり、見ようによってはルードヴィッヒよりも若く見えそうだ。
――あの肖像画の通りだな……。
などと思いつつ、ルードヴィッヒはハンネスに顔を向けた。
「ちょうどよかった、クラウジウス候、よろしければ、少しお話をお聞かせいただければと思うのですが……」
その言葉にハンネスはわずかに首を傾げてから、
「ああ、私も同じことを考えていたが……」
ニヤリと人懐っこい笑みを浮かべる。
「クラウジウス候はすでに死んでいる。私は、長らく帝国から離れていた一市民。だから、堅苦しい言葉遣いは不要だ。私もそうさせてもらおう」
それから、彼は辺りをキョロキョロと見回した。
「しかし、気兼ねなく話すには、王宮は少々、場所が悪いな。よろしければ、お二方、お付き合いいただこうか」
そうして、彼が向かったのは、貧民街の教会だった。
「ここは、祈りの場所。弱き子どもたちを守る神の家なのだがね……」
出てきたヨルゴスは、ものすごーく渋い顔でハンネスに言った。
どうやら、教会堂が壊されたことに、少々思うところがあるらしい。
「まぁまぁ、建物の修理費はきちんとガヌドスか帝国から捻出されるように手配するから」
などと、軽い口調でヨルゴスを説得し、さっさとハンネスは部屋に入ってしまう。勝手知ったる様子で、教会堂の奥、小さな部屋に入ると、遠慮なく椅子に腰かけた。
「さて、ここならば、他人に話を聞かれずに済むだろう」
一切の遠慮のない様子から、彼が、ヨルゴスと古い付き合いであることが窺えた。
やや遠慮がちに、彼の正面に座りながら、ルードヴィッヒは口を開いた。
「それにしても、灯台を崩すというのは、大した威力ですね」
その言葉に、ディオンも苦い顔で頷く。
「ああ、正直、あんなものがあると考えると頭が痛いね。あれは、戦の形を大きく変えるものだ」
「まぁ、悪いほうにばかり考えることもないさ。そんなものがあるのなら、鉱山の採掘ははかどるだろう。帝国は、ミーア姫殿下のもとで、もっと発展していく……」
「と言いつつ、あまり、表情は優れないように見えるが……」
ハンネスは、小さく微笑みながらルードヴィッヒの顔を眺めていた。その様子に、ルードヴィッヒは小さく肩をすくめた。
「人の身には過ぎたる知識……。そう言ったものが、おそらくは世界にはあるのだろう、と思いまして。灯台を吹き飛ばすほどの薬だ。そんなものが溢れた未来は、あまり楽しい世界には思えない」
顎をさすりつつ、ハンネスは興味深げにルードヴィッヒのほうを見た。
「なるほど……。それが、ミーア姫殿下の重臣の考え方か……。さて、ご安心を、というべきか……あるいは、帝国の発展を思うのであれば残念ながらと言うべきかもしれないが……あれが、戦争や採掘に使えるほどに大量に手に入るかと言われれば、正直なところ、難しいだろうと私は思う」
「難しい……? それは、製法がということでしょうか?」
「というよりは、材料の入手が、かな……」
それから、ハンネスは一瞬だけ考えた様子だったが……。
「あの薬は、火風の薬という。それは、一つには火と風を生み出す薬という意味合からなのだが……ところで、ルードヴィッヒ殿、火とは、なんだと考える?」
「火……ですか」
唐突な質問の意味を吟味するようにつぶやいてから、ルードヴィッヒは答える。
「火とは神の力。あるいは、人と動物とを分ける存在……。文明に不可欠なもの。そんな認識ですが……」
「そう。大体イメージ通りだ。私も似たような認識だよ。だが、今は思い切って、こう定義しようか。火とは、人の知恵の源である、と……」
ハンネスは、そこで人差し指を立て、こめかみを、とんとん、っと叩いた。
「そう、知恵だ。そして、蛇の教典『地を這うモノの書』の異本には、このような記述がある。≪知恵の木の実≫の果汁を絞り、煮詰め、いくつかの薬と合わせると、恐ろしい火と風とを生み出す薬が出来上がると……」
「知恵の木の実というと、あの創世神話に出て来る木の実のことでしょうか? 食べたら必ず死ぬ、と言われていたにもかかわらず、人が、そそのかされて食べてしまったという……」
眉を顰めるルードヴィッヒ。ディオンもどこか呆気にとられた様子で……。
「そりゃまた、ずいぶんと突飛なものが出てきたもんだね」
「無論、本当にあるのかどうかはわからない。が、少なくとも、私の知る火風の薬の製法というのは、そのようなものなのだ。ゆえに、もしその記述が正しいのであれば……それは、大量に作りだして、なにかに使えると言った類のものではないのではないかな」
「それはそうでしょうね。神聖典によれば、知恵の実の生えた園には、人は入れなくなったと言いますから、少なくともおいそれとは作れないでしょうが……それは、あくまでも寓話的なことなのでは……」
ルードヴィッヒの問いかけに、ハンネスは苦笑いを返す。
「どうかな……。しかし、私がパトリシアお姉さまから探せと言われた薬もまた、同じ創世神話に関わるものである以上、軽視はできないと考えているよ」
「創世神話に関わる薬……?」
思わず顔を見合わせるルードヴィッヒとディオンに、ハンネスは言った。
「そうだ。神聖典にはこうあるな。神は大地の土を取り、それを水でこねて作ったものに、命の息を吹き込んだ。それが人となった、と。極論すれば、人とは水と土の器に、神の息を入れたモノであると」
そらんじるように、ハンネスは続ける。
「そして、最初の人は命の木から実を取って自由に食べることができていたという。命の木、すなわち人を形作り、養う『水と土』の木の実だ。その木の実を材料とした薬は、人に活力を与え、命を長らえさせる、『水土の薬』と呼ばれている」
「『火』と『風』の薬、それに『水』と『土』の薬……。世界を形作る四つの原素。なるほど、四原論ですか。ちなみにハンネス殿は、それをどの程度、信じているのですか?」
その問いかけに、ハンネスはひと際おかしそうに笑ってから、
「蛇の教典で得た知識に信ぴょう性もなにもあったものではないな。ただ、それが、創世神話に出て来る木の実そのものであっても、寓話的にその名を冠されているだけのものであったとしても、いずれにせよ、それほど多くは得られないだろうと考えているよ。そうでなければ、今までの歴史の中に、それらしきものが登場していてもおかしくはないからね」
「しかし、その割には、今回は、雑な使われ方をしている気がするな。あの灯台を崩すだけだなんて、そんなことのために使うだろうか?」
疑問を呈したのは、ディオンだった。
一度使えばなくなってしまうような薬を、あんな灯台を破壊するのに使うだろうか? それは、無駄遣い以外の何物でもないのではないか? と。
「いい質問だ。ディオン殿。だが、その答えはそう難しくはない」
ハンネスはニコやかに微笑んで、続ける。
「考えるべきは『誰にとっての無駄か』という点だ。混沌の蛇、すなわち、秩序を破壊し、混沌の到来を待ち望む者にとっては、確かにあれは無駄遣いだろう。されど……あれを使ったヴァイサリアン族の者たちにとっては、どうかな?」
その問いかけに、ルードヴィッヒは、ハッとした顔をする。
「そうか……。蛇の思想は感染し、歪めるもの。されど、その宿主の思想を完全に蛇のものに書き換えることはできない。なぜなら、蛇の思想自体が、ほとんど存在しないから」
だから、ヴァイサリアンの復讐が優先されたのだ。仮に、世界を混沌へと落とし込むのに、最も有効な手が、帝国の叡智を爆殺することであったとしても、ヴァイサリアン族の蛇たちにとっては、あの灯台を破壊することのほうが優先されるのだ。
ヴァイサリアン族の、先祖への想いは「世界を混沌に堕とす」という曖昧にして、無色透明な蛇の思想に勝るからだ。
「ヴァイサリアン族の、先祖の恨みを晴らしたと、高らかに告げるための方法であったと考えれば、あの使い方は、そこまでおかしいことではないのではないかな?」
「火風の薬の製法を書き記した者にとっても、知恵の実を後世に残そうとした者にとっても、あの使い方は本意ではなかっただろうが、なるほど。ヴァイサリアン族にとっては、確かに悪い使い方ではなさそうですね。それに、あの灯台を崩すというのは、あの薬を使わなければ一苦労だったはず……。手で崩すには時間がかかる。派手な演出で、我らヴァイサリアンここにあり、先祖の無念はここに晴らされん、と宣言するのであれば、使い方としてはおかしくはない、と……そういうことでしょうか」
ハンネスは満足そうに頷いて、
「もっとも、あくまでもこれは推論に過ぎない。他にあの薬がないという保証もない以上、警戒するに越したことはないだろうがね……」
抜け目なく、そう指摘するのであった。