第百二十六話 そして彼女は歩き出す
「お父さま―」
意を決した様子で、オウラニアが口を開いた。けれど、そう呼びかけた後、言葉が続かなかった。言うべき言葉を探すように、オウラニアは視線をさ迷わせる。
「オウラニア、私が憎いか……?」
そんな娘に、ネストリは静かに問うた。
「憎んでもらっても構わんし、お前にはその資格があろう。だが、あいにくと、お前に殺されてやるつもりはない。我が命をお前にやることもない。この命は、ただ、我が息子、カルテリアのものだ」
「ずいぶんと、息子さんに固執しているようですけど、もし、彼がこの国が欲しいというなら、王位を譲るおつもりですの?」
そうなると面倒なことになる……と一瞬だけ懸念したミーアであったが、その問いかけをネストリは鼻で笑い飛ばした。
「欲しいというならば、もちろんくれてやるが……こんな国が欲しいとは思うまいよ」
「なるほど……それはそうかもしれませんわね」
確かに、ヴァイサリアン族を受け入れたこの国は、これから先、色々と苦労しそうだし、進んで苦労を背負いこんで王権を欲する者など、ミーアからしてみれば、想像の埒外の存在、端的に言ってヤベェ奴である。
――しかし、蛇的な視点でいえば、ガヌドス港湾国の王というのは、割とねらい目という気もしますけど、どうなのか……。
などと、ミーアが会話をしている時だった。
不意にオウラニアが、ああ、っと小さく声を上げた。
「ああ、そうだわー。私、結局、これを言おうと思っていたのねー」
パンッと手を叩き、実にスッキリした顔をして、オウラニアは父の顔を見つめ……そして。
「お父さま―、私はー、あなたを許すわー」
意外なことを言った。
静かな、穏やかな声で、笑みすら浮かべながら言った。
『あなたを許す』と。
想定外の言葉に、ミーアはまじまじとオウラニアの横顔を見つめてしまった。
「許す……? この、私を?」
ミーアと同様、驚いた様子のネストリ王。そんな彼に、オウラニアは不思議そうに首を傾げた。
「あら? 私に恨んでほしかったのかしらー?」
「別に恨まれても、恨まれなくとも何とも思いはしないが……意外ではあった」
彼の言葉に、ミーアも同意だった。
ガヌドス国王の言葉は、一般的に見れば酷いものだった。娘より息子を重視し、娘には何の感情も向けぬ父というのは……娘からの恨みを買っても当然の存在と言えるだろう。許される要素は一つもないような気がするが……。
――もしかして、許す、とあえて温情を見せることで、お父上の気を惹こうとしてるとか……? けれど、そんなことでいちいち心動かされる方には見えませんけれど……。
などと言うミーアの予想は、次の瞬間、裏切られることになる。
オウラニアはあくまでも穏やかに、
「恨まないわよー。だって、あなたへの恨みに囚われているだなんてー、時間がもったいないんだものー」
一刀両断した。
オウラニアは堂々と言うのだ。
お前と関わる時間は……復讐のためであったとしても浪費である、と。
「お父さまへの怒りにも、恨みにも、使う時間はないわー。私には、やるべきことが海辺の砂粒のようにたくさんあるんだからー、そんなことに使うなんてもったいないじゃないー」
復讐に使う時間がもったいないから、許すことでそれを放棄してしまう、とオウラニアは言っていた。
父への感情に心を使うことは浪費で、そんなことをしている暇がないから……オウラニアは、父を許すというのだ。
「だけどー、そうねー。今だけ、ほんのちょっぴり、嫌がらせさせてもらおうかしらー」
そうつぶやいて、オウラニアは自らの頭に手をやった。
「これのこと、覚えておられますかー? お父さまー」
そうして、オウラニアの差し出したそれ――魚の骨の形の髪飾りを見て、ネストリは首を傾げた。
「これはお父さまがー、唯一、私にくれた髪飾りー。まだ、私が小さい頃に、ご自分で釣った魚の骨を削って作ったものよー」
そう言われても、ネストリ王は、ピンときていないようだった。
「ああ……。まぁ、ほんの気まぐれで作ったものだろう。あいにくと、覚えてすらない……」
なんでもない、と首を振る父に構わずオウラニアは微笑みかける。
「お父さまが覚えてなくっても、私は覚えてるわー。全部、ぜーんぶね。あなたは、私になにも与えないって言ってるけど、そんなのは無理ですよー。お父さまー」
「……なに?」
「同じように、あなたは世界になんの影響もしたくないって……。自分はなにもしたくないっていじけてるけれど、それだって無理ですよー。だって、あなたは私を生み出してしまったから」
優しく、あくまでも穏やかにオウラニアは言った。
それは、彼女の宣言。
世界になんの責任も果たしたくないと告げる父へと。
自分は王族として生き、世界に責任を果たしていくと……。それがお前の娘の姿なのだという……ぶん殴るような宣言。
「あなたは、なにもせず、ただ黙って見ているといいわー。あなたの血を引く娘を通して、世界に影響が広がっていくのをー。あなたが、望もうが望むまいがー、あなたという人間は、世界に影響を与え続けていくのー。この! 私を通してー」
自らの胸に手を当て、力強く、オウラニアは言う。
「なにを、愚かな……そのようなこと……」
「邪魔は、できないでしょうー? だって、お父さまは、なにもしないのだから。私のすることを積極的に邪魔することだって、できないでしょう?」
挑発するように、煽るように言う。それから、オウラニアはもう一度、その、魚の骨の髪飾りを頭につけ直した。
かつて、それは、オウラニアの拠り所だった。
素っ気ない態度をとる父が、本当は、自分のことを思っていてくれていると、その証なんだと――彼女がすがろうとしたものだった。
けれど、これからは違う。図らずも、それはある意味では復讐の証だった。
それは、父がしようとしたことは、決してできないのだと彼に見せ続ける証だからだ。
でも、同時にそれは、一筋の救いでもあった。
世界になにもしないと心に決めた男が……死の間際、今までの人生を悔いることが、仮にあった時……それは、一筋の光として差し込むものだからだ。
自身の人生は無為ではなかったと……自身の娘が、世界に責任を果たしたと……そう思えるものだからだ。
そして、仮にそうならなかったとしても、オウラニアには関係ない。
彼女は、すでに許しているのだから。
「あなたを恨むなら、こんなもの捨てちゃうのがいいのかもしれないわー。復讐するなら、放り捨てて踏みにじるのがいいのかもしれない。カルテリアお兄さまは、お父さまから、名前も王位も、脱出のチャンスも受け取らなかったって聞いたけどー、私はありがたくもらっておくわー。だってー、復讐のために捨てちゃうなんて、お父さまのゆえに手放すだなんてもったいないものー。いただける王位は、きちんと有効に使うし、この髪飾りもー」
そうして、オウラニアは髪飾りをつけ直して見せて……。
「ほらー、とっても可愛いでしょうー? お父さまのために捨てるだなんて、もったいないものー」
ヤナやキリル、ヴァイサリアンの子どもたちのために……ガヌドス港湾国という国のために、そして、ミーアの弟子として自身を研鑽するためにも、時間はいくらでも必要だ。だから、彼女は復讐のためになんか、一秒たりとも使わない、と、そう決めたのだ。
今のオウラニアの心には、蛇に付け入られるような後ろ暗いところは、もはや一遍もない。
なぜなら、彼女はもう許しているからだ。
父の側が歩み寄ってくれば、彼女は決して拒絶しない。謝罪は受け入れるし、父としての情を向けるなら、娘として情を返すこともあるだろう。
なぜなら、彼女は、もう許しているからだ。
父がどうであったとしても関係ないのだ。
彼女の中で、自分の選択は決まっている。彼女は堂々と胸を張って、許しているのだ。
それは、オウラニア・ペルラ・ガヌドスという一人の少女の、王族としての第一歩であった。
「それでは、お父さま、ご機嫌よう」
優雅にスカート裾を摘まむと、オウラニアは部屋を出て行った。