第百二十三話 贅沢な傷心
蛇の手から助け出されたオウラニアの傷は、思いのほか深かった。身体的な傷ではなく、その心につけられた傷のほうが……。
彼女は、あの日以降、ずっと部屋に引きこもっていた。
広い部屋、ただ一人でベッドに横になり、ぼんやりと天井を眺める。否、厳密に言えば、彼女は天井を見ていなかった。その瞳が映すのは、あの日の……灯台の記憶だ。
「お父上は来ますよ。命懸けでね。でも、残念ながら、それは、あなたのためじゃあないんですよ。オウラニア姫殿下」
事前に言われていた言葉。そのおかげで、父が来たことに驚きはなかった。
ただ、その時に……。
「ああ、本当に来たわー。私じゃない、兄のために……」
そうわかってしまった瞬間に……、ふっと心の中の火が消えてしまった気がした。今までギリギリのところで燻っていた火が……ミーアと出会って、再び燃えようとしていた小さな火が……呆気なく消えてしまったような……そんな気がしたのだ。
「あなたより、息子さんのほうが大切なんです。だから、あなたに興味なんかないんですよ」
その言葉は、深く、冷たく、オウラニアの胸を抉る。
何度も、何度も、強調されるのは、父が自分のために来たのではないという事実。父が、自分よりも兄のほうを重んじて、心から愛しているということだった。
――あれは、悪いやつの言葉だからー。真に受ける必要なんか、どこにもないんだからー。
あの男が、自分を傷つけようとしていることはわかっている。わざと嫌なことを、傷つくようなことを言っているのだということはよくわかっている。
けれど、だからといって無視はできなかった。なぜなら、彼の言葉が真実だからだ。
その言葉が、頭の中を何度も何度も木霊する。
それは、まさに感染する思考だった。
知らなければ考えずにいられたのだ。けれど知ってしまったら、もう二度と知る前には戻れない。刷り込まれた言葉、気付いてしまった事実から、逃れることはできない。
「ああー、だから、お父さまは、私に頑張らなくってもいいなんて言ってたんだー」
もともと期待していない。興味もない。だから、頑張る必要がない、と。
『あなたは、ガヌドス王の血を引く者だから、一緒に連れてはいけないの』
かつて母は、そう言った。
寂しくなかったわけじゃないけど、自分にはすべき役割があると思えて、それが誇らしかった。
なのに……。
『お前はなにもしなくても良い』
父に言われた言葉重く響く。
それが、本当に……心からの本音であったことが、今ならばわかる。
「そうかそうかー。だから、お父さまはあんなことを言ったのかー」
自分は、もうなにもしないことに決めたのだ、とも父は言った。それも、ひどくと腑に落ちた。
そうして、オウラニアは……父の虚無感に囚われた。
なんだか、なにもかも……どうでもよくなってしまったのだ。
もう、なにもやりたくなくなって……。けれど……。
「喉が、乾いた……」
体は不自由なもの。なにもしなくても、腹が減るし、喉も乾く。
億劫だけど、仕方ないことだ。
もぞもぞとベッドから起き上がった彼女は、枕元に置いてある水に手を伸ばす。それは、専属メイドが朝、汲んできてくれたもので……。
飲もうと容器に口を付けた、まさにその時……オウラニアは眉を潜めた。
なんだろう……? なにか、聞こえたような……?
オウラニアは、何気なく、壁にかけられている大きな絵を眺めた。
それは、彼女の先祖が釣り上げたとされる巨大魚、ムーンボウの絵だった。かつてミーアが壮絶な殴り合いの末、撃退した恐ろしい魚である。
その絵が、ガタ、ガタガタっと揺れ……横にずれた。その裏の壁には、小さな穴が空いていて……。
「え……ええ……?」
ぽかーんと口を開けるオウラニア。その目の前で、穴から、小さな人影が這いずり出てきた。
一瞬、刺客かしらー? 悲鳴を上げたほうがいいかしらー? などと思うオウラニアであったが、よく見ると、それは見知った子どもたちだった。
「や、ヤナ、それにキリルも……。どうして、どうやってここにー?」
首を傾げるオウラニアに、ドヤァな顔を披露するのは、先頭をきって部屋に入ってきたベルだった。腰に手を当てつつ、ベルは言う。
「ふっふっふ、どこに王宮にも隠し通路の一つや二つ、あるものですから。この程度の、隠し方で、ボクの目を欺こうだなんて、まだまだ甘いですよ」
なんか、こう、すごくベルだった!
ハンネスと会い、ちょっとした追走劇をも経験したベルの中では、今まさに、冒険魂が燃え上がっているのだ!
そして、国王とオウラニアが誘拐されかけた今、「警備のために、抜け穴を探す」とか適当なことを言えば、色々自由に動き回れてしまうのだ。
まぁ、それはともかく……。
ベルについてきた二人のヴァイサリアンの子どもたちは、そんなベルをスルーして、オウラニアのところに小走りにやってきた。
「オウラニア姫殿下、大丈夫ですか?」
オウラニアの顔を見て、キリルが心配そうに眉根を寄せる。
学園で、そして、今回の旅ですっかり仲良くなってしまったヴァイサリアンの男の子。その姉、ヤナも気遣わしげな目を向けてきて……。
「えっと、パティから……聞きました。あの……すごく大変だったって……」
「ああー、二人とも、心配してきてくれたのねー」
部屋に引きこもり、出ようとしなかったから、こんなふうに強引に会いに来たのか……。
お姫さまの部屋に忍び込むなんて、無茶なことするなー。と思った。
部屋から出ないんだから、誰にも会いたくないって察してよ、とも思った。
けれど、わざわざ注意するのも怒るのも面倒だったから、曖昧な笑みだけ浮かべて。
「実は、そんなに大丈夫じゃないかもー」
適当に答えて、オウラニアはベッドのほうに歩いていき、ぽてん、っと横になった。
「なんだか、ちょっと疲れたわー。悪いけど、今は、あんまりお話ししたくないわー」
力なく横たわるその様は、ミーアがベッドの上に打ち上げられた時と少しだけ似ていて……けれど、決定的に違っていた。
ミーアのように、積極的にサボろうという気概が、オウラニアにはなかった。
そこには、なにもなかった……。
蛇のばらまいた毒は確実に……、オウラニアを弱らせ、殺しかけていたのだ。
が……。
「あ、あの、ミーアさまが『くそったれだ』って、大勢の前で叫んだ話……聞きたくないですか?」
ヤナの言葉に、オウラニアがゆっくり顔を向けた。
「ミーア師匠が……なんて?」
「くそったれ、です。ヴァイサリアン族の人たちの前で……」
「く……」
思わず、口に出すのを躊躇うオウラニア。釣り三昧な日々を送っているとはいえ、オウラニアは一国のお姫さまなのだ。口に出していいことと、悪いことがある。それゆえに……。
「みっ、ミーア師匠がそんなこと言ったの?」
ついつい興味を惹かれてしまうのだ。
自分などよりよほどお姫さまらしいミーアが、何に対して、そんなことを言ったのか……。どんな状況で言ったのか……。
ベッドの上に起き上がったオウラニアに、ヤナは静かに語りだす。
島でのこと……ミーアが何を語ったのか……。
すべてを聞き終えたオウラニアは、思わず、笑ってしまっていた。
「ああー、それは、すごくミーア師匠らしいわー。でも……ふふふ、すごいわー、ミーア師匠。相変わらずねー」
ヴァイサリアンの隔離島のことを見事に解決したとは聞いていたが、まさか、そんなことを言っているとは思わなかった。
「ああ、それにしても、ふふ。おかしい。ミーア師匠がそんなことー、ははは」
ひとしきり笑って、ちょっとだけ気分がスッキリしたオウラニア。その耳に小さな声が届く。
「あの、オウラニア姫殿下……」
ふと見ると、ヤナがまっすぐにこちらを見つめていた。きゅっと小さな拳を握りしめ、ものすごーく真剣な顔をしている。
「あらー? なにかしらー?」
問い返すと、ヤナは一瞬、迷ったように視線を揺らしてから……。
「お父上と、ちゃんとお話ししたほうがいい、と思います」
その言葉に、息を呑む。
「どうして、そんなこと言うのー? 今、せっかく、気分がよくなってるのにー。なんで、関係ないあなたが、そんなことー」
「だって、あたしたちはっ……もう、できないけど……オウラニア姫殿下は……それができるから……」
「あっ……」
その言葉に、ガツンと、頭を殴られたような気がした。
――そっかー。ヤナも、キリルも、もう話したくっても話せないんだー。お父さまとも、お母さまとも……。
二人の親はすでに亡くなっている。どれだけ願おうと、それをすることはできない。
では、自分はどうか?
もう、話すことなんか、ないと思っていた。話したくもないと思っていた。けど……それができるということは、それだけで、幸せなことなのではないか?
そうして、彼女は改めて思い知らされた。
自分はやっぱり甘ったれのお姫さまだ。いじけて、ベッドの上で横になっていたって、水が出て来るし、お腹が空けば食べ物だってもらえる。
このまま死んじゃいたい、とか言っていたって、そんなの言葉だけ。ヤナやキリルのように必死に食べ物を探さなければ、本当に餓死してしまうなんてこともない……。
それに気付いたら……なんだか、子どもたちの前で、ダラダラしてるのが、ひどく恥ずかしくなった。
――傷ついた? 大丈夫じゃない? 私、この子たちの前で、そんなこと言っちゃったのー?
うわぁ、格好悪い……っと思いつつ、オウラニアは静かに立ち上がる。
――私は、まだお父さまとお話ができるし、文句の一つや二つ、言ってやることだってできるんだー。それなら、言いたいこと言ってやろうかなー。
それから、彼女は改めてヤナのほうに目を向けた。視線を受けて、ヤナがピクンッとおびえた様子で立ちすくむ。
そんな彼女の頭を撫でて……オウラニアは言った。
「ありがとう。ヤナ。キリル。なんだかちょっと……ううん、すごく、元気が出たわー」
それから、部屋の外で控えているはずのメイドに声をかける。
「お父さまのところに行くわー。準備を手伝ってもらえるかしらー?」