第百十六話 帝国の小心(えいち)を持たぬ者の不幸
火燻狼は、蛇の秘技に精通した男だった。
いくつかの便利かつ特徴的な毒、薬の類、水を含ませると光を放つ粉の調合に、部屋に粉塵を充満させて爆発を起こす術に加え、嘘を見抜き、人の心を読み、操る術などなど……。
およそ、この世界ではほとんどの人が知らないような技術を、彼は習得していた。
だが……。それはなにも、彼一人の特権というわけではなかった。
ゆえにこそ、彼はもっとよく話を聞いておくべきだった。
蛇を自称するパティから話を聞き出し、確かに彼女が蛇の技術を持っていることを確かめたうえで……警戒しておかなければならなかったのだ。
パティが蛇の技術を持っているなら、他にも蛇の技術を修めた者がいるかもしれないことを。
そして、自分と同じ技能を持った者すら、いるかもしれないということを
直後、灯台内に、強烈な光が瞬いた。
――ちっ、こいつは、水で光を作る目つぶし……。敵に俺と同じ技を持っているやつがいるってのか!
視界を失いつつも、彼はパティの腕を離さなかった。そのまま、後ろにひねり上げ、自分の前に立たせる。
パティの、小さく苦痛に呻く声が聞こえたが、そんなことに構ってはいられない。
「ぐっ、これは……いったい……」
カルテリアの狼狽した声。燻狼は即座に声を張り上げる。
「早く、王の首を刎ねろ。カルテリア、そして逃げないと、奴が……」
言葉の途中、ガツン、と金属と金属がぶつかる音が聞こえた。
――くっ、間に合わなかったか。ええい、忌々しい……。
白く染まった視界、それが徐々に、徐々に収まってきて……。最初に見えたのは、刃を振り下ろした姿勢で固まるカルテリア。そして、その前で盾を構えて王を庇う、アベル・レムノの姿だった。
「……おやおや、これは」
燻狼は、すぐに辺りを見回した。すると、アベルのほかに見覚えのある少女と、見知らぬ男の姿があった。
さらに、男は人質であったオウラニアを確保していて……。
「オウラニア姫を奪い返されてしまいましたか……」
小さく舌打ちしかけるも、燻狼は思い直す。
オウラニアには、すでに散々、絶望を味わわせた。人質と言うならば、この目の前の少女で十分事が足りる。
そう自分を落ち着けて、彼は検討を始める。
――アベル・レムノと正体不明の男……あいつが、さっきの目つぶしをやったんですかね? それに……巫女姫さまが殺し損ねた少女が一人……これは。
その、ちょっと混沌としたメンバーに、燻狼は思わず笑ってしまう。
――帝国の叡智か、ディオン・アライアがいたらヤバイと思ったが、どうやらいないようだ。あの正体不明の男には警戒したほうが良さそうだが、これは、却ってチャンスなのでは……? こっちにはカルテリアもいるわけだし……。
見覚えのない男の正体は気にはなったものの、自分と同じ技を使うというのであれば、むしろ、その技術は搦め手寄りのはず。となれば、カルテリアの武力で制圧することもできるかもしれない。
――それに、あの少女はイエロームーン公爵令嬢の無二の友人……となると、上手く使えば、シュトリナ嬢を再びこちらの手の内に収めることもできるやも……。アベル・レムノの剣の腕は油断ならぬものなれど、カルテリアのほうが上。
などと、皮算用を始める火燻狼であったが……。陰謀家気質の火燻狼には一つの弱点があった。
それは、あまり現場慣れしていない、ということ。
彼はいつだって、事が起きる時には、その場にいないことを信条としていた。
事前に備えを完璧にし、いざ事が起こる時には、その場から離れてしまう。だからこそ、彼が捕まることはないし、そこになんらかの工作がされていたことすら、人々は気付かない。それが彼の強みであった。
されど、その反面、彼は、事が起きた時の判断力に甘さがあった。
ひょいひょい、気軽に内乱が起こりそうな国に行ったり、睨み合いの森に波に流される海月のごとく顔を出したり……鎮圧に来た軍の前に引っ込みがつかなくなって立ち塞がってみたり、暗殺者の待つ荒野に馬一頭をお供にで出たり……。そんなことをする経験が不足しているのだ。
それゆえ、常に最悪に備えるミーアのような……研ぎ澄まされた小心者の戦略眼が、この時の彼には、いささか欠けていた。
彼はまたしても事態を甘く見ていた。
彼は考えなければならなかったのだ。狼使いの凶刃を退けたアベルの剣は、侮るべからざるものではあれど、灯台下の仲間たちを無音で仕留めるほどの実力は、まだないということを。
数は少ないとはいえ、この灯台を守る者たちは、いずれも手練れだ。彼らを、声を出す間さえ与えず、無力化することができるとすれば……そんな芸当ができる者がいるとすれば、それはどんな人物なのか……?
燻狼は想像し、警戒しておかなければならなかった。
――ふふふ、とりあえず、この少女を人質にして、アベル・レムノと、あの男の動きを封じて……。
そして、その無警戒は……肩に走った激痛という形で姿を現わした。
「が……っ!」
唐突な衝撃に、思わず、手の力が緩む。と同時、横を通り過ぎた風が、そのままパティをさらい、流れるように燻狼に剣を突きつける。
「いやぁ、上手くいってよかったよ」
パティを片手で抱きながら、もう片方の手で剣を構える男……。帝国最強、ディオン・アライアは、平服に剣一本というラフな軽装で、彼らの前に姿を現わした。
「ディオン、アライア……。ぐっ、なぜだ? なぜ、お前が、ここにいる?」
打ち据えられた肩を押さえ、悔しそうに呻く燻狼に、ディオンは肩をすくめてから、
「別に、大して難しいことじゃないさ。ここまでくる階段は螺旋状に建物を巻いていたからね。途中から壁をよじ登ってきただけのこと。石のでっぱりがあるから、やってみると、意外と登れるものだよ」
かつて――ベルとシュトリナは、巫女姫の幽閉されている塔を見て、ディオン・アライアならば外壁をよじ登って頂上まで行くことも可能だろう、などと冗談で言っていたものだが……。
そんな冗談とも信頼ともつかない言葉に応えて、ここまでやって来たディオンである。
ちょっと馬に乗るのを練習したぐらいで、ミーアが逃げきれないわけである。
「そんなことを聞いているんじゃない。なぜ、ここがわかった? なぜ、こうも都合よく、この場所に現れる?」
「なぁに……別に難しいことじゃない。敵が蛇なら、ガヌドスの各所をバラバラに襲い、国内を混乱させるだけだろう。だが、ヴァイサリアンの民を鍛えたのが、サンクランドの諜報機関であった場合、ある程度は組織だった動きをするはず……。レムノ王国の革命軍を見れば、それがよくわかる」
ランベールに率いられていた革命軍、彼らが占領した都市は、レムノ王国軍の兵站を分断する、交通の要衝だった。軍事的な常識を踏まえたうえで、彼らは行動していたのだ。
「となると、今回も、町の各所を襲いつつ、ある程度の連携を図ろうとするはず。では、離れた兵に合図を送るためにはどうするのがいいだろう……。音か、狼煙か、あるいは……」
ディオンは抜いた剣で、自らの肩をトントン叩きながら、
「ルードヴィッヒ殿は、光を用いて遠隔地との簡単な情報のやり取りをしていたという。同じことを敵がやったとしても、なにもおかしくはないと、そう思っていたところを、ちょうど灯台のほうから、ちらちら明かりが見えたものだからね」
と、そこで、ディオンは小さく笑って……。
「しかし、君らは、アレだな……。混沌、混沌、と口では言いながら、やることは意外と合理的だね。完全に混沌とした行動をとられていたら、ここには辿り着けなかったよ」