第百十二話 忠義の証の鎧をまといて
ミーアの言葉は、ヴァイサリアンの民に、大いなる動揺を巻き起こした。
彼らが突き付けられたのは、深刻な問いかけだった。
今日、彼らが、命を懸けてでも成そうとしていたことは、憎きガヌドスの民を討ち、この島で、無理矢理に働かされている現状を打開することだ。
対して、ミーアは、現状を打開する案を提示した。
憎きガヌドスの民を討たぬ代わりに、ヴァイサリアンの民の血も流されることなく……ただこの状況を変えるという提案をしてきた。その話を取りつけてきた、と言っているのだ。
加えて、ミーアは子どもたちの未来を天秤に乗せてきた。
片方の皿には、過去の親たちの復讐を、その反対の皿に、未来の子どもたちの幸福を乗せ、さらに、過去の親たちの復讐は、お前たち自身の気持ちの問題ではないか? と指摘を加えたのだ。
そうして、目の前でミーアが見せた光景が、人々の心に訴えかけていた。
自分たちと同族の少女、額に刺青を持つ少女を、帝国皇女がそばに置き、優しく頭を撫でる姿。少女のほうも、照れくさそうにしつつも、自然体で……だから、あれが無理やり、嫌々やらされていることではなく、普段からあのような関係であることは明らかで。
そのような未来を……次なる世代の子どもたちの幸せを捨ててでも、復讐を成さんとするのか? と、目に見える形で見せつけられたかのようだった。
正面から叩きつけられた問いかけに、人々の心が動かされかけていた、まさにその時。
「みな、騙されるな! おのれ、我らの同胞を惑わすな!」
一人の男が声を上げ、弓を弾き絞った。
男は、ヴァイサリアンとして生まれ、育てられた蛇だった。それも、サンクランドの白鴉によって、戦闘訓練を受けた、危険な蛇だった。
「なっ!」
驚愕に人々が固まる中、放たれたのは鋭い矢の一撃。それは、弓の名手リオラ・ルールーなどには及ばぬまでも、十分に鋭い一撃で……。
ぽっかーんと口を開けるミーアに向かい、真っ直ぐに飛んでいき……飛んでいき。
「はぇ……?」
ガツン、っと金属の音。ミーアの前に壁として立ち塞がるは、忠義の兵、エルンストだった。その胸には、矢が突き立っていた。
「ミーア姫殿下、伏せてください」
一瞬、遅れて、ミーアと子どもたちを押し倒すようにして、セリスが上から覆いかぶさってくる。
皇女専属近衛隊の者たちも、素早く壁を作るようにして、ミーアたちと、ヴァイサリアンの民の間に立ち塞がった。
一撃を受けたエルンストは、その場で片膝をつく。
――あっ、危なかった……間に合って良かった。もし、判断が一瞬でも遅れていたら……。あるいは、賊が声を上げずに矢を放っていたら……。
暗殺者としては、あの行動は三流の行動だった。
されど、扇動者としては、おそらく必要なことだった。
皇女ミーアは、あの時点で、ただ排除すればいいだけの存在ではなくなっていた。あの演説によって、下手をすれば、民を救うために命を落とした聖人に祭り上げられるかもしれない者になっていた。
だから、明確な敵だと表明して、排除されなければならなかった。そうしなければ、民は、万に一つも立ち上がらなかったからだ。
――つまりは、あの男の予想以上にミーア姫殿下のお言葉が、人々の心を動かした……そういうことなのだろうな……。
「エルンストさん、大丈夫ですの?」
その声に顔を上げれば、自らの仕える主、ミーアが心配そうに覗き込んでいた。
安心させるように、エルンストはニヤリと微笑んで、
「ご安心ください。この鎧は、我らの姫殿下への忠誠と同じく、たいそう分厚くできておりますので」
矢を受けた胸には、言ってはなんだが、程よい痛みがあった。
これで、まったく痛みを感じないようであれば、逆に死が間近に迫っていそうなものだが……胸から感じるのは、肉が引き裂かれ、血が流れる感触だったから、むしろそれが彼を安心させる。
傷の痛みは正常に感じる。肉は裂かれたが、骨までは届いていない。死までは、まだまだ遠い。
――自分は、まだ戦える!
足に力を入れ、立ち上がる。
不屈の近衛は、この程度では倒れることはない。ミーア姫殿下を守り、死んでもなお戦うのが、彼らの誇りだからだ。
されど……。
「あれ……?」
残念ながら、エルンストの出番はなさそうだった。
自分たちの周りには、すでに、ミーアを中心にした防御陣ができあがっていた。
オイゲンの指示により、エルンストとセリスを除いた八人によって築かれた陣形。金属鎧を着こんだ近衛たちが作る壁は、分厚く、ヴァイサリアンの民に隠れた暗殺者からミーアたちを隔てていた。
さらに、その向こう側、賊を取り押さえに行っているのは、シオン王子らに率いられたグリーンムーン家の私兵たちだった。
率いる者が違えば、弱兵も強兵となる。シオン、キースウッドに率いられた彼らは、極めて迅速に混乱を収拾していく。
「賊が一人とは限らんぞ。周囲を警戒。弓を持っている者は即座に拘束する。無関係の者で弓を持っている者は、すぐに、それを手放せ。手放さぬ者は取り押さえる」
その仲間たちの姿に、心強さを覚えるエルンストである。
孤軍で奮闘する必要はないのだ。背中から槍を突き入れられることもない。ここには、背中を預けるに値する仲間がいて、身を挺して守るべき姫がいる。
「無理はしないでください。エルンスト」
同僚のセリスが心配そうな顔でこちらを見つめていた。
「ああ、いや、本当にかすり傷なんだ。鎧を貫くほどの威力はなかったから」
安心させるように笑うエルンストであったが、そこへ、可憐な花のような令嬢、シュトリナが歩み寄る。
「それでも、先端に毒が塗ってあることもあります。念のために、見せてください」
「そうだぞ、エルンスト。勲一等のお前にこれ以上活躍されては、俺たちの立つ瀬がないというものだ」
仲間たちからそう言われてしまえば、エルンストとしては、もはや無理に動こうとは思わなかった。
予備兵力は重要だ。仲間たちが働いている間に体を休め、不測の事態に備えることも立派な仕事だからだ。
そう判断した彼は、小さくため息を吐き、手当てを受けようとして……。
「って、少しやりづらいな……」
自身に集まる令嬢たちの視線にさらなる緊張を強いられることになるのであった。
今週と来週は少しミーア分が薄いかもしれません。年末だからダラダラしてるんだと思います。