第百十一話 無為なる王の述懐
オウラニアたちが連れてこられたのは、古びた灯台だった。
そこに住まう灯台守に、蛇は巧みに近づき、すでに味方に引き入れていた。
「まぁ、蛇というか、白鴉の連中の置き土産なんですけどね。正直、微妙な派閥の違いとか、興味ないでしょう?」
などと、肩をすくめる燻狼の言葉、聞かされた裏事情にオウラニアは愕然とする。
――サンクランドの諜報部に、混沌の蛇……この国ってヴァイサリアンのことがなくっても、結構、危ないんじゃあ……。
灯台守と言えば、水産の要だ。ガヌドスの主要産業に関係する部分を他国に押さえられていた不気味さに、オウラニアは顔を引きつらせる。
「まぁ、帝国の叡智なら、この国の勘所はきちんと把握してるだろうから、ここもじきに見つかるだろうが……すぐは難しいだろうねぇ」
暗に、助けが来るのはまだまだ先だ、と言う燻狼に、オウラニアは強気に笑ってみせた。
「いくら時間をかけたって、無駄だと思うわー。こんなところに、お父さまが来るはずないものー。私を人質にしたって無駄なことよー」
「そうだな。燻狼。実のところ、それには俺も同意する。どうだ、この女、すぐにでも殺して国王に見せつけてやるというのは……」
バンダナの暗殺者、カルテリアはそう言うと、なんの躊躇もなく剣を引き抜き、オウラニアに突き付ける。
「ひっ……」
息を呑むオウラニアだったが、決然と彼を睨み返し……。
「あっ、あなたたちの思惑に乗るよりは、そっ、そのほうがマシかもしれないわー。ミーア師匠に迷惑をかけたくもないしー」
「いいだろう。利害の一致だな。お前の首を斬り落とし、この灯台に晒してやろう」
「はぁ、やれやれ、もっと仲良くしてくれませんかね。仮にも血を分けた兄妹なんですから」
「いちいち嫌なことを思い出させるな、燻狼」
吐き捨てるように言うと、カルテリアは、灯台の反射鏡を乱暴に叩き割った。
粉々に飛び散る破片。怯えるように、頭を抱えてしゃがみ込むパティ。オウラニアは、かばうようにして、パティに覆いかぶさる。そうしながらも……。
「兄妹? どういう意味ー?」
その言葉が気になってしまう。
「王は来ますよ。オウラニア姫殿下。そして、何度でも言うが、それは、あなたのゆえではないのですよ」
追い打ちをかけるような燻狼の言葉が、オウラニアの胸に突き刺さった。
そして……その言葉は、ほどなくして成就した。
こつ、こつ……と。階段を登る足音、それが徐々に大きくなっていき……。やがて、現れたのは……。
「おっ……お父さま……どうして……?」
ネストリ・ペルラ・ガヌドス……。オウラニアの父の姿だった。
驚愕に目を見開くオウラニアだったが、父の目がこちらを向くことはなかった。
彼が、ただ見つめるのは、バンダナを巻いた暗殺者のほうだった。そうして、暗殺者の男を観察してから、王は深々とため息を吐いた。
「ああ……そうだ。間違いない。彼女の……ゼナイダの面影がある」
その声には、聞いたことのない響きがあった。冷め切った父の声は、常ならぬ熱を帯びているように、オウラニアには感じられた。
「そうか……生きていたか……」
「ふん、ぬけぬけと。よくも恥ずかしげもなく、そんな顔ができるものだ。自分が捨てた女の息子になど、興味はなかろうものを……」
カルテリアが怒りも露わに剣を抜く。
「あー、殺すのはもう少ししてからにしてもらいましょうかね。せっかく役者が揃ってるんだ。妹君にも事情を説明してやらないと、効果は半減だ」
「どういう、ことなの? なにが、どうなっているのー?」
困惑するオウラニアに、燻狼の、奇妙に優しい声が告げる。
「そちらにいるカルテリアという男は、あなたと同じお父上の血を引く者ですよ」
「え……? で、でもー」
問いかけるように、父のほうを見る。っと、ガヌドス国王は、目を合わせることなく言った。
「昔の話だ。お前の母と婚儀を結ぶより前……私は、一人の娘と恋に落ちたのだ。ヴァイサリアン族の、美しい娘とな……」
そうして、ネストリ王は静かな口調で語りだした。
自らの、無為なる王権の日々を。無為になるように生きた、己が人生のことを。
「私が彼女……ゼナイダと出会ったのは、二十、いや三十年近く前になるだろうか……」
それはまだ、ネストリが王子と呼ばれていた時代のことだった。
ガレリア海に点在する無人島の一つに渡り、優雅に釣りを楽しんでいた彼は、浜辺で、一人の娘と出会ったのだ。
長く美しい髪を持つ娘に、彼は一目で恋をした。
娘のほうも、満更ではない様子で彼を受け入れた。
娘の名は、ゼナイダと言った。
小島にて、逢瀬を交わすこと幾度か……。夕陽を背に、口づけを交わし合った時……ネストリは、ついに見つけてしまう。
彼女の前髪に隠されていた額に……。あの、忌まわしき第三の目のタトゥーを。
この国の唯一の王子であった彼には、ヴァイサリアンとの恋は許されなかった。
当然のことであった。
「私は憎悪したよ。この国を……民すべてを。私が、愛する女と結ばれないのは、民の間に根付いた、ヴァイサリアンへの差別意識が原因であったからだ。それを当たり前のこととして押し付けてくる者たちを憎悪せずにはいられなかった。だが……」
ネストリは、燻狼のほうに目を向け、続ける。
「そもそも、ヴァイサリアンを虐げられる存在とした、それは、混沌の蛇の思惑であった。弱者の反抗、革命により国家を転覆させ、混沌へと堕とす。そのために、あえてヴァイサリアンの蛇たちは、自らを虐げられる者とした」
ティアムーン帝国の初代皇帝と、あの忘れ去られた島で出会った時……、すでに彼らには、世界を混沌に堕とさんとする強い意志があったのだ。それが、怒りか、悲しみか、絶望かはわからない。が、ヴァイサリアンの先祖はその想いが消えぬよう、子孫に引き継がれるよう……あえて自分たちを虐げられる者とした。
その狂気の犠牲となったのが、今のヴァイサリアン族であり、ネストリでもあった。
「こうして私は、恨みを晴らす術を失ったのだ。わかるか? ガヌドス国民に怒りをぶつけ、この国を滅ぼさんとすれば、それは、ヴァイサリアン族が反逆するきっかけとなる。それは、そもそもの原因を作った蛇の思惑に乗ることになる。かといって、恨みの矛先を蛇に向けるならば、その思惑が成就せぬように、民を安んじて治めるよりほかはなし。それは、私とゼナイダを直接的に引き裂いた民たちを利することになる。どちらに矛先を向けても、私は、恨みの対象となるものたちを利することになってしまうのだ。ゆえに……」
ネストリは笑った。
「私は、何もしないことにした。それこそが、私のせめてもの復讐であったのだ」
さて……王の述懐をパティは静かに聞いていた。
町を背にして聞いていた。
日の当たる、暖かい位置で聞いていた。
そして、だらりと体の横に下げられた腕、その先の小さな手には……反射鏡の破片がいつの間にか握られていて……。