第百八話 荒地に道を
ミーアたちに先立ち、皇女専属近衛隊十名とグリーンムーン家の私兵十名が島に上陸する。ゴツゴツとした岩が転がる殺風景な島は、いかにも恐ろしげで、グリーンムーン家の私兵たちは、どこか落ち着きのない顔をした。
一方で、皇女専属近衛隊の面々は、落ち着いたものだった。島に降り立つや否や、すぐに陣形を組んで、周囲の警戒を開始する。
「少し、足場が滑るな。みなさまに注意を促さねば……」
辺りを冷静に観察するオイゲンのそばで、エルンストは、いささか心ここにあらずな様子で、黒々とした岩地を眺めていた。
「そう緊張することもないぞ、エルンスト」
オイゲンから、気遣わしげな口調で声をかけられた彼は、ゆっくりと首を振る。
「すみません。緊張というか、考えていました」
「考えていた、なにを?」
「先ほどの、ミーア姫殿下のお言葉を……」
エルンストは、ミーアからかけられた言葉をずっと反芻していた。
「俺の忠義を知っている……とおっしゃられていましたが、正直なところ、忠義などという言葉に値することをしていなかったもので……」
困り顔をするエルンストである。普通に考えれば、誰かと誤解しているのではないか? とか、知らなくて、口から出まかせを言っているのではないか? などと思ってしまいそうなものだが……不思議とそうは思わなかった。
むしろ、その胸にあったのは「報われた」という感情だったのだ。
「別に驚くことはない。お前が真面目に任務に取り組む男であることは、みなが知っている。その評価をミーアさまもまたご存知であったというだけのことだ」
オイゲンは、エメラルドスター号のほうに目を向けつつ、続ける。
「そういうお方なのだ、あの方は……。我らが命を懸けてお守りするのは当然のこと。されど、あの方は、それを当然のこととは思わず、忠勤であると、しっかりと評価してくださるのだ」
そうしてオイゲンは、若いエルンストのほうに目を向ける。
「励めよ、エルンスト。姫殿下は、我らをしっかりとご覧になっていてくださる。お前の生真面目さや、馬鹿正直さは、ここでは決して無価値とはされない」
その言葉に、エルンストは静かに頷いた。
皇女専属近衛隊へと編入されて以来、ずっと疑問であったこと……否、それ以前よりずっと心に引っかかり続けた小さな不満が、スゥっと溶けていくのを感じて……。
っと、次の瞬間、彼らは同時に剣の柄に手をかけた。
二人の周りの、同僚たちもまた、同じく武器に手をかけ、あたりに鋭い視線を放っていた。
ディオン隊の面々によって、あるいは隊長バノスによって、彼らは鍛えられていた。
帝国最強ディオン・アライアには及ばないまでも、その練度は、帝国軍最精鋭部隊と言っても過言ではない。
ゆえに、気付くことができた。
岩陰からこちらを窺う人々。武器を構え、こちらを窺う者たちの存在に。
「……かなり、数が多いですね。オイゲン殿。どうされますか?」
凛とした声で聞いてきたのは、エルンストと同じく編入組のセリスだった。臆することなく、潜む者たちを見やりつつ。
「見たところ相手は烏合の衆。一戦して、こちらの武威を示せば、制圧することは可能かと思いますが……」
その意見には、エルンストも賛成であった。
烏合の衆とはいえ、武器を持った人間が大挙して襲ってくれば、町は大混乱になるだろう。ガヌドスの兵も、さほど練度が高いわけではない。ゆえに、作戦次第では、彼らは十分脅威と言えるだろう。
ここは、一戦して彼らの士気をくじくべき、というのは、当然の判断だ。
しかし、オイゲンは、ゆっくりと首を振った。
「凡百の軍ならば、そうするだろうが、我々はそうはしない」
その判断にも、また、納得できる部分があった。
相手は、まだ、こちらを敵だとは認識していない。彼らの敵はあくまでもガヌドス港湾国。対して、こちらはガヌドスの軍ではない。ゆえに、無理に戦闘する必要はない。烏合の衆とはいえ、数の差は、やはり脅威には違いない。戦わずに済むならばそれに越したことはない。
エルンストはニヤリ、とおどけた顔をして、
「なるほど。栄えある帝国軍は、そのような乱暴なことはしないと……?」
けれど、その質問に、オイゲンはいたって真面目な顔で答える。
「いや、違う。我らは帝国軍である前に、ミーア姫殿下の軍である」
堂々とそんなことを言った!
思わず困惑するエルンストとセリスのほうに目を向けて……。
「ゆえに、我らは、どれほど劣勢であったとしても、決して怯まず、堂々と進軍する。どのような絶望的な戦いであっても、決して引くことなく、ただ、姫殿下の栄光を守り、その御心を為すのみ」
朗らかに、高らかに、オイゲンは続ける。
「しかし、今、ミーア姫殿下の御心は戦うことにあらず。我らは、ミーア姫殿下の軍である。ゆえに、我らが示すは武威にあらず。ただ、ミーア姫殿下の溢れる栄光のみである」
そうして、オイゲンは近くにあった岩の上に登り、高々と声を張り上げる。
「武器を収めよ! ヴァイサリアンの民よ。我らは、ティアムーン帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンの軍である! 我らは、貴殿らと剣を交えるために来たのではない」
刹那の沈黙、その後、
「ティアムーン帝国の兵よ。問おう。ならば、なにをしにここに来たのだ?」
声は岩陰、どこからか響いた。
「そうだ! この良き日、我らの願いが叶わんとする、この復讐の日に、外国の軍がなにをしに来た? 我らに手を貸すためか? それとも、その武をもって我らを掣肘するためか?」
同調するように、声が上がる。それらが静まるのを待って、オイゲンは言った。
「我らは、ただ、ミーア姫殿下の良き報せを告げに来たのだ」
「良き報せ? 面白い。この期に及んで、どのような朗報があるというのか? ガヌドス国王が死に、ガヌドスの民に報復する。それ以上に良き報せがあるのならば、言ってみろ」
声が聞こえたほうに目を向けて、オイゲンは首を振る。
「それを貴殿らに届けるのは、我々ではない。我らが敬拝する、帝国の叡智、ミーア姫殿下ご自身である!」
堂々たる宣言。瞬間、どよめきが辺りに広がった。
「帝国の皇女殿下が、この島に直接来ていると……?」
「そうだ。貴殿らのことを捨て置けぬと、この荒海を超えていらっしゃったのだ。今一度、言おう。ヴァイサリアンの民よ。武器を下ろし、姫殿下の御声に耳を傾けよ。もし、そのご厚意を踏みにじることがあれば、我ら近衛が当千の働きを持って、貴殿らを滅するだろう!」
かくて、忠義の兵たちによって、ミーアへの期待と注目は高まっていくのだった。