第百六話 連れ去られた二人
時間は、少しさかのぼり……。
教会から連れ去られたオウラニアとパティは、それぞれ抱えあげられて、狭い路地裏を運ばれていた。
時折、寝間着を掠めるほどに壁が近い、とても道幅の狭い裏道。その壁が近づく都度、パティは教会の子どもたちから失敬した落書き用の蝋石で壁にガリガリッと印を描く。
建物の持ち主には申し訳ないが、子どもの落書きだと諦めてもらうことにして。
幸いにして、空はまだ暗い。気付かれることはないだろう。
そうして何度も角を曲がり、曲がり。やがて、彼らの前に広い道が現れた。
そこには、一台の馬車が停まっていた。
パティは咄嗟に蝋石から手を放した。かつん、と落ちる音が鳴ったが、幸いにして、彼女を背負った男には聞こえていないようだった。
そのまま、パティたちは、どさっと道に放り捨てられる。
きゃっ! と、ミーアの祖母には似つかわしくない、可愛らしい悲鳴を上げるパティ。そんなパティに、オウラニアが心配そうな視線を向けてきた。
「平気ー? パティ?」
問いかけに、無言で、コクリと頷くと同時、馬車から男たちが降りてきた。
「やれやれ、どうにか上手くいったみたいで。いやぁ、ディオン・アライアがあそこにいないで良かったですよ」
手前には、先日、馬車を襲ってきた男がいた。その隣には、額に火傷の痕がある男。さらに、足取り軽くオウラニアのほうに歩み寄ってきたのは、バンダナを巻いた男だった。
「ほーう、なるほど。これがオウラニア姫殿下ね」
パティの記憶に間違いがなければ、それは、先日、ガヌドス国王を狙いに来た暗殺犯だった。
オウラニアも、それに気付いたのか、口をポカン、と開けている。
面倒なことにならないように、と口を開こうとしたその時、まるで機先を制するように先日の誘拐犯、こと、火燻狼が微笑みかけてきた。
「いやぁ、またお会いしましたね」
などと、気安げに手を挙げる男を、パティは、表情一つ変えずに見つめる。
「おや、あまり驚いてはいただけないようで……」
「……どうして、あの時、私たちを連れ去らなかったの?」
小さく首を傾げて、パティは言った。
「あの時? ああ、先日は、手が足りなかったもので……」
その答えに納得がいかずに、パティは小さく首を振った。
「これだけの戦力を揃えられるのだから、やろうと思えばできたはず。なのに、今日まで待ったのには、理由があるの?」
「いやぁ、正直なところ、できれば手元に置いておきたかったのは山々なんですがねぇ、色々と事情がありまして」
燻狼は、肩をすくめつつ、バンダナの暗殺者のほうにひょこひょこ歩いていき、その肩にポンと手を置いた。
「彼、カルテリア、というんですがね? 少しばかり乱暴者でしてね。そちらの……」
っと、燻狼はオウラニアのほうに目を向けて、困ったような笑みを浮かべる。
「オウラニア姫殿下に、個人的な、たいそう深い恨みをお持ちなのでね。もしかしたら、殺してしまうのではないか、と思った次第で」
「蛇なのに、個人的な恨みで計画を破綻させるの?」
不思議そうに、目を瞬かせるパティに、燻狼は朗らかな笑みを浮かべた。
「ははは、蛇らしくないでしょう? これなら、よっぽど、貴女のほうが蛇らしいと思いますよ、蛇の教育を受けた、蛇じゃないお嬢ちゃん」
燻狼は顔を寄せて、パティの目を覗き込む。
「まぁ、巫女姫さまは、色々な蛇がいたほうが混沌としていていいって言ってましたがね。ところで、お嬢ちゃんは、どうして自分まで連れてこられたのか、わかってるかい?」
問われ、パティは小さく頷いてから、
「私が、蛇を名乗ったから?」
「まぁ、そんなところなんだが……。いや、実際、気になっちまいましてね。今や、あの帝国の叡智のせいで、我らが蛇は蛇の息、いや、虫の息……」
道化師のようにおどけた仕草で首を振り。
「っというか、それ以前に蛇の教育を専門的にできるところなんか、もともと、数えるぐらいしかないはずなんだ」
わざとらしく指を折り、数え上げていく。
「まず、巫女姫さまのところに、イエロームーン公爵家も一応はそうかな。それと、ヴァイサリアン族の一部にも、まぁ、“地を這うモノの書”があるからできるか……。それに、クラウジウス家だ……けどねぇ」
顎に手を当てつつ、燻狼は笑みを浮かべる。
「お嬢ちゃんは見たところ、ヴァイサリアンには見えないし、俺たち騎馬王国の人間でも、たぶんない。となると……はて、不思議なことにイエロームーン家で、お嬢ちゃんのような子どもを預かってるなんて話は聞いたことがない。かといってクラウジウス家も当主がいなくなって以来、まともに活動していない。すると、どういうことになるのか……」
燻狼はゆっくりとした足取りでパティに歩み寄り、ジロリと睨みつけてくる。
「お嬢ちゃん、あんたは、いったい何者だい? どうもあんたは、どこかで見たことがある気がするんだがね……」
対してパティは、燻狼から目を逸らさぬようにジッと見つめ返した。心を読まれないように、弱みを見せないように……表情を動かさぬように懸命に努める。
さらに、燻狼が何かを言おうとした、その瞬間だった。
「つまりー、私を人質に、お父さまを呼び出そうってわけねー?」
だしぬけに、オウラニアの、どこか気の抜けたような声が響いた。
空気を読まないようなその言葉に、けれど、パティは作為を感じる。
――オウラニア姫、私を助けてくれた?
パティの見たところ、オウラニアは決して頭が悪くはない。むしろ、機転が利くほうだと思う。さらに今のように、頭の良さを隠して、あえて馬鹿なふりをしているようにも見える。
――その辺りは、ミーアお姉さまと似てるかもしれない。
などと、一人頷くパティであるが……それは、どうだろう……?
「でもー、お父さまは、私を人質にしても来ないと思うけどー。だって、私のことを、犯人扱いしてるのよー?」
その指摘に、燻狼は再び笑みを浮かべた。
「確かに、そいつは道理だが。まぁ、大した問題じゃない。多分、来ますよ、王は。貴女とは一切関係のない……貴方より大切な子どものためにね」
「……え?」
虚を突かれた様子のオウラニア。対して、バンダナの男が不満げな顔をする。
「なに? そうなのか? ならばなぜ、オウラニアを連れてきた? 王の目の前で殺すのか? あるいは民の前で……?」
「あー、まぁ、殺すのも悪くはないんでしょうがね。俺としては、できれば生きたまま使いたいんですよ」
燻狼は呆れた様子で首を振った。
「あんたのような、暗殺者にはわからん感覚なのかもしれないが、人は死ねばそこで終わる。けれど、生きたまま堕とせば、周囲の者を破壊する、蛇の手先に成り代わる。人は、生きたまま堕としたほうが、世界ってのは歪み、壊れて、混沌に堕ちるもんですよ?」
その理屈は、パティにもわかった。
もし、この地域を混沌に堕としたいのであれば、力のあるティアムーンの統治に委ねてはならない。これから善政を敷くであろう、帝国の叡智の手にガヌドスを委ねることは、地域を安定させ、より長い平和へと繋がる道を開くことになる。
だから、王族を殺し、ガヌドスをティアムーンの属領にするようなことがあってはならない。
蛇にとっての理想は、おそらく、腐った国王に統治させること。統治者が悪である、ないし、力がないため民が荒れる。それが最も蛇にとって都合がよい状況だ。
ゆえに、燻狼はオウラニアの心を攻めようとしている。
「さぁ、それでは、そろそろ参りましょうか」
そうして燻狼は、芝居がかった仕草で、馬車のほうを指さした。
開け放たれた扉から見えるのは、まるで、闇が充満しているように暗い車内だ。一瞬、躊躇した様子で立ち竦むオウラニア。その手を、そっと、パティが握る。
先ほど助けてもらったお礼に、と励ますように……。
オウラニアは、ハッとした顔でパティのほうを見てから、すぐにキリリッと表情を引き締めて歩き出した。