第百五話 こみ上げる不安を呑み込んで
ミーアの覚えた不安感、あるいは、胸の中のモヤモヤ感は、エメラルドスター号が出港してからも、大きさを増し続けた。それは、お腹の底からせりあがってくるような、不安感……否、不快感。そう、すなわち!
「うう……き、気持ち悪いですわ」
……船酔いである。
かつて、帝都に向かう馬車の中で味わったのと同じ気持ちの悪さに、ミーアは、うーっふっと息を吐く。
「ミーアさま、大丈夫ですか?」
そんなミーアの背中を優しくさするアンヌであったが……、次の瞬間、うわわっと声を上げて尻餅をついた。
アンヌがちょっぴりそそっかしいから……ではない。船が、大きく揺れているからだ。
「こっ、これ……本当に、着きますの? 冗談じゃなく沈んだりとか……うぷ……」
なぁんて顔を青くするミーアに、珍しく苦り切った顔でルードヴィッヒが頭を下げた。
「申し訳ありません。ミーアさま。今回は、いささか、ご無理をお願いしてしまいました。本来であれば、ヴァイサリアンのことは他国のことに過ぎないこと。ゆえに、ミーアさま御自ら、このように命懸けで行く必要はなかったのかもしれません」
――あら? これ、やっぱり命懸かっちゃってますの?
などと、ちょっぴり慌てるも、それを口には出さずに呑み込むミーア。否……。
「うっぷっ……」
呑み込んだのはこみ上げてくる吐き気のほうだったかもしれない。まぁ、どちらでもいいか。
「されど、これは、ティアムーン帝国がこの先、百年、二百年、誤りなく進むために必要なことであると信じます」
「二百年……。それは、ずいぶんとスケールの大きい話ですね」
そう指摘するのは、ミーアの隣に座るシュトリナだった。ルードヴィッヒは大きく一度頷くと、眼鏡を軽く押し上げてから、ミーアのほうを見つめて……。
「ミーアさまも、そうお考えなのではないですか?」
対して、ミーアは黙ったまま、かすかにうつむくのみだった。吐き気が……こう……声を出すとヤバそうな感じだったからだ。
ルードヴィッヒはもう一度頷いてから続ける。
「古き盟約……ティアムーン帝国に施された初代皇帝陛下の呪い……。もともとの帝国にとって、ガヌドスは、滅びの構想の一部。いわば属領のようなものだった。だからこそ、侵略するようなことは、ただの一度もなかった」
国が違えど、彼ら、ガヌドスもまた初代皇帝の思惑の中にいた者たちなのだ。帝国は、食料不足……飢饉によって滅びる仕組みを維持しなければならない。だからこそ、国として、帝国から攻められることはなかった。今までは……。
「その盟約は、ミーア姫殿下によって破棄されました。それ自体は素晴らしいことですが、はたして、ミーアさま以降のティアムーン帝国の皇帝たちは、この海に面した土地という魅力に抗い続けられるでしょうか……?」
ルードヴィッヒの問いかけに、シュトリナは悩ましげな顔をした。
「確かに……ベルちゃんが帝位を継げば大丈夫だろうけど、それ以降はわからない……」
その意見には、ミーアも頷かざるを得ないところがあった。
別に、ミーア以降のなどと言う必要はない。ミーア自身も、あの革命を体験していなかったら……、自らの蒔いた種を自らが刈り取るという真理を実感できていなかったとすれば……どうだろうか?
舶来の、未知のあまぁいお菓子の誘惑に抗うことができるだろうか?
そのお菓子を、自らの手で取り寄せたいという欲求に抗うことができるだろうか?
「そうですわね。それは確かに難しいでしょうね……」
ルードヴィッヒは静かに頷く。
「中央正教会の教義は“神より賜りし土地”に、非常に重きを置くものです。自分に与えられた土地で満足するように、と諫め、他者のものを欲しがることを戒める……そう言った特徴があります」
それゆえ、他国の土地を奪い取り、己が利益を増やす、という考え方を否定し、強く非難する。無論、サンクランドのような理屈の立て方もできるが、あれはあくまでも、他国の統治が上手くいっていないことが前提だ。民が苦しんでいるという状況を正すための手段に過ぎない。
基本的に、中央正教会は、武力や外交的圧力によって国境が動くことを許容しない。
だからこそ、帝国が武力を以てガヌドスを侵略するなどと言うことになれば、非難を受けることは避けられない。
「戦によって得られる利益は、他国からの非難を凌駕するものになる、と主張する者は必ずいるでしょうが……私は懐疑的です。仮にさしたる抵抗を受けずに土地を占領できたとして、その時に得た悪評は、恨みは、幾代にもわたり、帝国に付きまとう呪いとなるでしょう。短い時間で大きな利益を得られる……などと言う甘い話に反動がないはずがない」
「ふむ、しかも、短期間で多くの利益を得たい時というのは、そうせざるを得ない状況に追い込まれた時が多いですからね。判断を誤る可能性は大いにありそうですわ」
前時間軸において、滅亡寸前の空気を吸ったことのあるミーアはよく知っている。
人は追い詰められた時にこそ、一発逆転を求めて、安直な手段を選びがちなものなのだ。その結果……。
「国を立て直すため、侵略に出て、さらに国の死期を早めるなどと言う本末転倒を容易にやらかしてしまいそうですわね……」
だからこそ、ガヌドス港湾国と新たな関係を、しっかりと構築しておかなければならない。
オウラニア姫との関係をしっかりと結んで置き、なおかつ、国内にセントノエル・ミーア学園の共同研究施設を作っておくことで、未来の帝国皇帝に、ガヌドスを侵略する隙を与えない体制を作るのが大切なのだ。
ミーアは静かに目を開ける。峠を越えたのか……吐き気は幾分か軽くなっているような気がして……。
「ええ。大丈夫ですわ。ルードヴィッヒ。あなたのしようとしていることは、わたくしの心と一致しておりますわ。ガヌドス港湾国には、隣人として、平穏を保っていていただかなければなりませんわ……うっぷ」
微妙に、吐き気がぶり返してきて口元を押さえるミーアであった。