第八十九話 ルードヴィッヒの末期的妄想
「なに? そんなによいところなのか?」
ミーアの話を聞いて、皇帝はわずかに前のめりになった。
「ええ、美しい森で、静養には良いところと思いましたわ」
「なるほど。そういうことであれば……」
そのやり取りを端で見ていたルードヴィッヒは、
――なんということだ。
微かな失望を感じていた。
確かに皇女直轄領にしてしまえば、静海の森は救われる。ルールー族との対立は解消されるだろう。
けれど、代わりにベルマン子爵からは恨みを買う。
ベルマン子爵はルードヴィッヒの見立てでは、あまり有益な人物ではない。どちらかというと、お付き合いを避けるべき短絡的な人間のように見える。
しかしながら、彼は貴族だ。
あの地の統治を任された者なのだ。
ミーアのやろうとしている(と彼が信じている)改革のためには、どうしても、多くの人々の協力が必要となる。できる限り不必要な恨みを買わない方が良いに決まっている。
あるいは、ルールー族の件は恨みを買ってでもなすべきこと、とミーアが判断したのかもしれないが。
それは、正義ではあるし、皇女として賞賛されるべき態度ではあるのだろうが……。
――それでも、ミーア様ならば上手く治めてしまうのではないかと思っていた。俺はあの方のことを、買いかぶっていたのか?
そう、ルードヴィッヒは、もはやその程度では満足がいかない体になってしまっていたのだ。
妄想の末期症状とも言える状態である。ちょっぴりアブナイ……。
けれどその失望により、ついに彼の目からはミーアに対する信仰という名の曇りが取り除かれようとしていた。
そう、ミーアは別に叡智でもなく、聖女でもなく。
どちらかというと、ちょっぴり残念な皇女殿下であると……、彼がその真実に到達しそうになった、まさにその時!
「ならば、ベルマンよ、その森のそばに皇女の町を作れ。ミーアのための城を建てるのだ」
皇帝の言葉に、ルードヴィッヒは頭を抱えそうになった。
――火に油だ。余計なことを……!
自分の領地を減らされたばかりか、そこに町を建て、挙句に城まで建てよ、とは。
――確かにベルマン子爵に命じれば帝国のお金を浪費せずに済むが、その分、余計な恨みを買ってしまう。
そうため息を吐きかけた彼は、ベルマンの顔に浮かぶ表情に気付いた。
「お、おお……陛下、そ、それは……」
まるで感動に打ち震えるかのごときその様子に、ルードヴィッヒは混乱した。
――なっ、なんだ、いったい何が……?
必死に考えた結果、彼は、あることに気づき……戦慄を覚えた。
―——そういうこと、なのか……? いや、だが、まさか……。
相手が商人であった場合、ミーアの選択は恨みを買うものだった。それはそうだろう、自らの資産を、皇帝の権力を持って接収するのだ。
命令に逆らうようなことはなくとも、歓迎されるはずもない。
けれど……、ああ、けれど、違うのだ。
ベルマン子爵は貴族なのだ。そして、貴族は常に名誉を何より重んじる生き物なのだ。
ミーアはそんな相手の特性を完璧に把握したうえで与えたのだ。
この上もない「名誉」を。
そもそもベルマン子爵が、今回のような暴挙に出たのはなにゆえか?
それはルドルフォン辺土伯への対抗意識を刺激されたためだ。
そんな彼の心の渇望に気付いたミーアは、自領に皇女の特別領を抱えるという名誉を、皇女のための町を用意するという栄誉を、与えたのだ。
それは、貴族にとってこの上ない誉れと言える。
なにしろ、あの森がミーアの領地となるのであれば、当然、一緒に皇帝も足を運ぶ機会も増えるからだ。
その栄誉は、貴族にとって何物にも代えがたいものだ。
――ミーアさまは、一切自腹を切ることなく、森を保護する条件を整えたというのか?
さらに、森のそばに皇女の町を作ることで、迷惑を被ったルールー族にも、繁栄の道を用意した。
あとは彼ら次第ではあるが、近くに町があることで、物流も盛んになる。
それも、ベルマン子爵の恨みを買わないどころか感謝すら得られる方法で、だ。
―——俺であれば、謀略によってベルマン子爵を失脚させる。ディオン隊長ならば、やはり実力を持って子爵を排除するだろう。
けれど、それは次善の策だ。
貴族、すなわち領主というのは社会を回すための歯車の一つだ。もしも、不具合が生じたからと言って、排除してしまえば必ず混乱が起こる。
そうしないためには次の領主をできるだけ早く決めて、引継ぎをしてやらなければならないが……、それでも混乱は免れない。
領民の心は乱れ、領地は荒れるだろう。そうしないためには、どうするか?
簡単だ。領主を上手く動くようにしてやればいい。
ミーアはいとも簡単に、それをなした。
――たぶん、これで終わりじゃないだろう。ルドルフォン辺土伯の方にも、きちんと配慮するはずだ。
ルードヴィッヒの末期症状的な予想は、何の因果か、次の週に当たることになった。
帝都に帰ったミーアのもとに、ルドルフォン辺土伯の娘、ティオーナから手紙が届いたのだ。




