第百話 眼鏡のピントを合わせる者!
言いたいことだけ言って、さっさと席に戻ってしまうミーア。その堂々たる威容を見ながらルードヴィッヒは、なんとも言えない充実感を覚えていた。
思えば、ミーアに同行していくつかの国を訪れた中で、今回ほど上手くフォローを入れられたこともなかったのではなかったか……。
じっくりと、戦果を確認するように、ルードヴィッヒは議員席を、そして会衆を眺める。まだ、大きな変化はない。されど、何人かの顔に困惑と動揺の色を見て取って、彼は満足げに頷いた。
――ミーアさまの唯一の弱点は、一を見て万を悟るという、ご自分を基準にして考えてしまうことだ。それを他人もできるはず、と、思ってしまう、天才ゆえの勘違い……これこそが最大の弱点なのだ。
ルードヴィッヒは、ミーアが「ディオンは剣ではなく腕である」と言った時点で、ミーアの言わんとしていることを理解していた。彼らに、なにを叩きつけ、なにを見せようとしているのかを正確に理解していたのだ。
……彼の中では、そういうことになっていたのだ。
それゆえ口を挟んだ。
ルードヴィッヒは軽く眼鏡を押し上げた瞬間に、ふと思う。
――そうか。俺が果たすべきは眼鏡のような役割か。ミーアさまのお話がよく見えるように、俺が眼鏡の役割を果たすのだ。
そう納得しつつ、ルードヴィッヒはミーアの言葉を思い出す。
ディオンのことを、なぜ、剣ではなく腕と称さなければいけなかったのか? それは……。
――ミーアさまは問わんとされていたのだ。ガヌドスの民に……ヴァイサリアン族は、この国の民にとって、なんなのか? ということを……。
ミーアは自国の話を出し、そして問うたのだ。
「帝国ではこのように考えている。では、ヴァイサリアン族というのは、この国にとってなんなのか? お前たちの国の一員、すなわち体の一部か? それとも、その足で踏みつけにする奴隷か?」と。
もしも国民、体の一部だと言うならミーアの言うとおり、今のような扱いは許されない。
一方で奴隷であると言うならば、果たして、その存在が許容されるものであるのかが、問われねばならなかった。
もちろん、便利な、使い勝手のいい奴隷であってほしいと思う者はいるだろう。いつでも切り捨てられる労働力、最低限の衣食住さえ与えておけば、自由に使える奴隷を欲しがらぬ者などいない。
けれど、それは許されぬことだ。他国からの非難を招く悪である。
その不利益は、体制を維持することによって得られる利益を、恐らくは上回る。だからこそ、ミーアの言葉を無視することはできない。
あるいは、そこまで悪辣ではなくても、現状を維持したい者たちもいることだろう。今まで問題にならなかったのだから、そのままそっとしておこう、という考え方だ。
人間は元来保守的な生き物だ。仮に変化によって良いものが得られるとしても、なかなかその一歩目が踏み出せぬものなのだ。
島に閉じこめて見ないようにする。目を閉じて忘れてしまえば、あたかも問題がなくなったかのように錯覚する。まるで、幽霊に対するミーアにも似た……そんな心理の人たちも一定数いることだろう。否、大部分がそうだろうか。
けれど……当然、帝国の叡智は、その思考停止を許さない。
――まるで、闇を払う月光のようだ……。
ルードヴィッヒは思う。
ミーアの言葉は、彼らが曖昧な霧の向こうに置いておきたかった問題に光を当ててしまった。影に隠されていた不都合な事実を光のもとに明らかにしてしまったのだ。
それは、ある意味では余計なことだったかもしれない。彼らにとっては、余分な問題を突きつけられた形に感じるかもしれない。
だが、見えていようがいなかろうが、表に出ていようが裏に隠れていようが……問題は厳然としてあるのだ。
この国の誰もが見えていなかったとしても、見ようとしなかったとしても、虐げられている人たちは確かにいるのだ。
ゆえにこそ、ミーアはあえて言ったのだろう。
「ディオン・アライアは替えの効く道具ではない。使い潰して新しくできるようなものではなく、替えの利かない人材である。腕のようなものである。では、お前たちにとってヴァイサリアンはどうか?」と。
そして、ルードヴィッヒの目に映るのは、消極的な人々ばかりでもなかった。
彼はしっかりと見ていたのだ。ミーアの言葉に同調するような、そんな表情の人々のことも。
そうなのだ。実際のところ、心ある人たちの中にはヴァイサリアンの境遇に同情する者も少なからずいるのだ。
考えてみれば当たり前のことだが、ヤナやキリルという子どもたちですら、隠れ住むことができていたのだ。今や、その隔離は徹底されてはおらず。本土に隠れ住むヴァイサリアンもそれなりにいる。
彼らは島に閉じこめた海賊の末裔でもなければ、見ず知らずの他人でもなく……共にこの地に住む、紛れもない隣人なのだ。
そして、困窮する彼らに……額を隠しながら懸命に生きる彼らに同情しないでいられる人間は、実はそこまで多くない。
そんな彼らにとってミーアの言葉は、まさに我が意を得たりといったものだった。
さらに、知恵ある人々の中には、ヴァイサリアンへの政策に危惧を覚える者もまた少なからずいた。元老議会の議員の中にも、その危機感は存在する。
ミーアに言われるまでもなく、ある人々を隔離し、重労働に従事させるなどと言う非道が、非難を浴びないはずがない。それが国を危うくする……まことに、ミーアが言うことは正しかった。
その者たちは知識と合理性に照らし合わせ、ミーアの言葉に耳を傾けていた。
そして、利に敏い人々の中には、隔離政策の見直しに旨味を見出す者がいた。
大陸一の学び舎、セントノエル学園と大国ティアムーン帝国の皇女の名を冠したミーア学園。その二校の共同研究施設……そこに新たな商売の匂いを敏感に感じ取ったのだ。
その新しい経済的要素は、ヴァイサリアン族を本土に受け入れることを可能とするか、否か。
いや、仮に多少の不利があったとて、すでにヴァイサリアン族の境遇を改善する以外に選択がないのだ。であれば、よりマシな、妥当な落としどころを見つける必要があるだろう。
かくて、色々な方面の人々に向けて、選択を迫ったミーアであるが……素知らぬ顔でプティングを食べていた。
「うふふ、美味しいですわ」
澄まし顔で、ほわぁっなどと息を吐いていたっ!
もはや、一切、話し合いに参加する気配のないミーアを見て、感心した様子でつぶやいたのは、造船ギルド長ビガスだった。
「なるほど……。ラフィーナさまとの関係をとりなしてやるから、自分たちで何とかする姿勢を見せておけ……と、そういうことか」
ミーアは言っていた。
協力は惜しまない、と。その協力とはズバリ、聖女ラフィーナ、並びにヴェールガ公国との関係をとりなしてやる、という意味だろう。
けれど、そのためにはこの国が、自らの選択で、決断で……変わらなければならない。変わる意思を見せなければならない。
「ヴァイサリアン族の受け入れ……か」
この国の淀みに新しく、清らかな水が流れ込んできた……。そのように感じずにはいられないビガスであった。