第九十四話 年老いた弟と孫の孫と、一番年下なパティ
さて、シュトリナが心配している頃のベルはと言えば……。
「それで、ハンネス師匠は、いったい、どこを探検したのですか?」
教会での朝食時。テーブルの上に、ちょっぴりお行儀悪く身を乗り出して、ベルが言った。
生き生きと顔を輝かせるベル。そんなベル隊長に触発され、隊員たる孤児院の子どもたちも、ワクワク顔でハンネスを見つめる。
「ああ。ガレリア海の島々を巡っていろいろと、ね」
「ほほう、島々を……。って、それって、すごく本格的な探検じゃないですか!」
「いや、まぁ、準備はきちんとしているので、大して危険はないよ」
苦笑するハンネスだったが、ベルは心から感心した様子で頷いて、
「なるほど。探検には準備が大事……。確かに、ミーアお祖母さまも同じようなことを言っておられた気がします。キノコ狩りの前には、万全に食べられるキノコを調べておけ、と。それと同じでしょうか?」
「そうだな……。確かにキノコは、何の準備もせずに食べると危険だ。探検の時には、できるだけ手を出さないほうがいい。それこそ、無人島などでは、できる限り健康の維持に努めなければ命取りになる。安全第一で、無謀なことはできるだけしないほうがいい」
「おお……すごい! 勉強になります、ハンネス師匠!」
そんなふうに声を弾ませるベルを見ながら、パティは不思議な気分に浸っていた。
――あのハンネスが……大人になってる……。
小さくて体が弱かった、あの弟……。不治の病に侵され、大人になるまでは決して生きられないと言われていたハンネスが、こうして目の前にいるという状況。
加えて言うなら、そんな弟ハンネスに絡んで行っているのが、自分の孫の孫(自分より年上の)である。
不思議というか、意味がわからない、頭がクラクラする状況だった。けれど……。
「なんだかよくわからないけど、よかったな」
小声でヤナが耳打ちしてきた。ちなみに、キリルは教会の孤児たちに混じって、ベル隊長の賑やかしをしていた。すでに、パティ以外の子どもたちの心を掌握しつつあるベル隊長なのであった!
まぁ、それはともかく……。
「……んっ、ありがと」
パティはヤナにお礼を言う。っと、なぜだろう、ヤナがびっくりした様子で目を見開いた。
「……なに?」
「いや……パティが笑ってるの、珍しいから」
パティは、小さく首を傾げて……。
――私が、笑ってる?
両手で顔を触ってみるけど、自分で意識した瞬間、その笑みは溶けて消えていった。
不用意に笑うな、必要な時にだけ、相手の心を操るために笑え。
決して、心を許すな……。
自らを縛る蛇の教えが、頭の中を駆け巡るけれど……パティはそれを笑い飛ばす。
その胸にはすでに、蛇の呪縛を打ち砕く希望が宿っていたから。
「そうか……私、笑ってたんだ……」
小さくつぶやきながら、パティは二日前の夜のことを思い出していた。
ハンネスと再会した日の夜、寝る前に、パティは年老いた弟から、おおかたの事情を聞いていた。
「まさか、本当にお会いできるとは、夢にも思っておりませんでした。改めまして、姉上、お会いできて嬉しいです」
二人きりの礼拝堂、パティは、ハンネスの目を見つめて言った。
「ハンネス……もしも、あなたが本当にハンネスなら、疑問がいくつかある」
「なんでしょうか? 私にお答えできることでしたら、なんなりと……」
ハンネスは、そんな姉の目を見つめ返して言った。
「あなたは、私がここに現れることを知ってるみたいだった。それは、なぜ?」
「他ならぬ、姉上ご自身からお聞きしていたからです」
「……私?」
小さく目を見開いたパティに、ハンネスは頷いてみせた。
「どこまでを今の姉上にお話しして良いか、考えておりました……。けれど、こうして、再び、生きた姉上にお会いできたこと自体が奇跡。であれば、隠しごとなど一切不要でしょう。すべてをお話しします」
そうして、ハンネスは話し出す。過去に、いったいなにがあったのか……この先、パティの身になにが起こるのか?
「あれは……私がまだ、幼い頃のことでした。姉上とお会いするのを禁止された期間がございます。その時には、他の蛇のところに預けられていると聞かされておりましたが……後にクラウジウス家の者たちは言っておりました。お姉さまは『原初の蛇の叡智に触れたのだ』と。そう姉上ご自身が言い、そのことを彼らも信じている様子でした」
「原初の蛇の……叡智?」
おそらく……それは、こちらの世界に来ていた期間になにがあったのかを誤魔化すためのものだったのだろう。
こちらの世界で得た知識、あるいはこれから得るであろう知識、特に≪地を這うモノの書≫の知識などを、適当に抜粋して語ってやり、「まだ読んでない蛇の知恵を持っている。蛇に直接出会ったのだ!」などと言って誤魔化したのだろうが……。
ただ、その『叡智』と言う言葉に関しては、なんとなく、その場のノリでつけたような気がしないではないパティである。
――帝国の叡智というミーアお姉さまの異名に引っ張られて、適当につけてしまった気がする……。
息子の名前といい、自身のネーミングセンスに、深刻な疑念を抱くパティである。まぁ、それはさておき……。
「事前に、こっちに来ている間になにがあったのか、蛇が納得する言い訳を考えておかないといけないかな……」
うんうん、っと頷くパティに、ハンネスは、はっきりとした声で言った。
「そうして、姉上は私に蛇の秘薬を与えてくださいました」
「蛇の秘薬……?」
「はい。不老不死を与えるとも言われている薬だとのことです。実際には、生命力を高めて、体を活性化させることで、老化を緩やかにするぐらいの効果でしたが……私の病には特効薬となった」
ハンネスの病は、奇妙な病気だった。いくら食事をしても生気が抜けて行き、やせ衰えていく、そんな不治の病だった。
「クラウジウス家の者たちは、おそらく、蛇の秘薬を薄めるか、あるいは少量ずつ私に飲ませていたのでしょう。だから、一時的に体調が戻るだけで、完全には治り切らなかった」
「私が持ち帰る薬で、ハンネスの病が治る……」
「はい。そして、病から解放された私は、そのことを隠しながら、ずっと秘薬を探し続けていたのです。パトリシアお姉さま、あなたのお言いつけのとおりに」
クラウジウス家にて、地を這うモノの書を熱心に読み込んでいたというハンネス。それは、蛇の薬を探し出すためだった。
過去の自分に届けるための秘薬を……。
「未だに薬は見つかっておりませんが、それすらも姉上が言っておられたとおりです。姉上の孫娘、ミーア・ルーナ・ティアムーンと姉上、パトリシア・ルーナ・ティアムーンとが揃う時、その薬への道が開かれる、と。姉上はそう言っておられました」
「そうか……。それが、私が、この時代にやって来た意味……」
ゴクリ、と喉を鳴らすパティであった。