第八十八話 ミーアのおねだり
朝方に、森から領都へと戻ったミーアの行動は迅速を極めた。
事情を問おうとするベルマン子爵を放置して、随伴の者たちを率いて帝都へと出発する。寝る間さえ惜しんで、睡眠など馬車の中でとればよい、と言わんばかりに。
「機を見るに敏、兵だけでなく、智者も拙速を貴ぶ……か。さすがミーア姫だねぇ」
その行動を、ディオンはため息まじりに見守った。
状況を整え、必要な手を打った以上、自身の居場所はここではない。戦うべき場所は別にある。
恐らく、そういうことなのだろうと、ディオンは思った。
「すべて計算の内、ということか。なーんか、その割にはビクビクしてるけど、あれも演技なんだろうねぇ」
かつて助けた子どもの祖父が、もめている部族の族長だったなどという偶然があるはずがない。
子どもを助けた時からわかっていたとはさすがに思わないが、森に来る前にはすでに情報を握っていたに違いない。
「帝国の叡智か……」
ふと、彼の脳裏をルードヴィッヒの言葉が過ぎる。
「出世とか、ほんと、やめてほしいんだけど……。あのお姫さんのためなら、ちょっと頑張ってみてもいいかもねぇ」
などと……、なんとなくやる気になっている彼には非常に申し訳ない話ではあるが、もちろんミーアは機を見るに敏、というわけではない。
単純に、危険地帯から……、もっと言えばディオンのそばから、とっとと逃げ出したいと思っているだけである。
――こっ、こんな危険地帯とっとと離れないと、命がいくつあっても足りませんわ!
さて、帝都に戻ったミーアは、すぐに新月地区に使いをやった。孤児院の、例の子どもを静海の森に送り届けるためだ。
もめ事が起きないように、きちんと護衛の手配も怠りがない。
そんなことをしていると、ミーアの父、皇帝から呼び出しがかかった。
「お父様、いったいなにかしら? しかも、謁見の間に呼び出しなんて……」
基本的に、ティアムーン帝国において、皇帝一族の距離は近い。国によっては、統治者たる皇帝や王は神聖不可侵な存在として、血のつながった家族であっても自由に会うことはできない、などということもあるが、帝国においてはそんなことはない。
むしろ、ミーアとしては暇さえあれば会いに来る父親が、若干ウザイ時もあるほどである。
そんな事情もあって、公式な場所である謁見の間への呼び出しには、いささか不可解なものを感じはしたのだが……。
その場に集められた顔ぶれを見て、すぐに納得した。
そこにいたのは自らの父である皇帝と、腹心であるルードヴィッヒ、そして……。渦中の人であるベルマン子爵だった。
「おお、愛しき我が娘、ミーアよ!」
「陛下、ご機嫌麗しゅう。お呼び出しに応じ、参上いたしましたわ」
スカートの裾を持ち上げ、頭を下げるミーアに、皇帝の叱責が飛ぶ!
「陛下などと申すでない。寂しくなるではないかっ! 気軽にお父様か、もしくはもっと砕けた感じでパパなどと……」
「お話を続けてください、お父様」
娘にすげなく扱われ、しょんぼり肩を落とす皇帝。
……困った人である。
「まぁ、お父様でも構わんか……。それより、ミーア、今日呼んだのは他でもない。過日、ベルマン子爵領へ行った件で話を聞きたいと思ったのだ」
――やっぱり、その件ですのね。
ミーアは、ベルマンの方を見た。彼は、微妙に青い顔をして固まっていた。
貴族とは言え、辺境地域にほど近い所領の、田舎貴族(本人は認めないだろうが)である。
国の頂点に立つ皇帝と謁見がかなうことなど、年に一度あるかないかといったところ。
緊張するなという方が難しいのは、容易に想像ができた。
――ならば、彼が圧倒されているうちに、話をつけてしまうのがよろしいかしら?
などと、腹の中で計算を立てていると……。
「聞けば、子爵領の紛争地帯に行ったとか。聞いた時は驚愕のあまり気を失いそうになったぞ」
「あら、危険など、なにもございませんでしたわ」
ミーアはシレっとした顔で言った。なにせ下手なことを言えば、森ごと滅ぼしつくしてやる! と言い出しかねない父である。
はっきりと言っておく方がよいだろう。
「そうは言うがな、周辺の警備にあたっていた兵をすべて引き連れて戻ってきたというではないか。これはよほどのことがあったと思うのが、当然のことではないか?」
――あらあら、余計なことをチクリやがったのはどなたかしら?
涼しい顔で、ベルマンの方を見てから、ミーアは首を振る。
「お恥ずかしい話ですわ。木に足をとられて、すっかり動転してしまいましたの。ただ、それだけの話ですわ」
「なにっ!? ミーアを転ばせるとは、けしからん木だ! 森ごと焼き尽くして……」
「いえ、お父様。その木は切り倒して、わたくしのかんざしにするよう、手配いたしますから、大丈夫ですわ」
ミーアはにっこりと笑みを浮かべて、それから、ベルマンの方を窺いながら言った。
「それより、お父様、わたくし、あの森のこと、とても気に入ってしまいましたの。ぜひ、あの森をわたくしの、皇女直轄領に加えていただきたいですわ」
まるで、可愛いぬいぐるみをねだるような口調で、ミーアは言うのだった。