第八十九話 オウラニアは混乱した
「…………はぇ?」
突然、ヘンテコな声を上げたパティを見て、オウラニアは首を傾げる。
――あらー? パティ、いったいどうしたのかしらー?
「え……? え? ハン、ネス……? え?」
パティは混乱した様子で、何事かぶつぶつ。かと思えば、ジッとある一点に視線を向ける。
それは、アベルの……いや、正確には、その向かいに座る青年のほうだった。
――んー? 知り合いなのかしらー? 私としては、アベル王子やベルちゃんがいたことのほうがびっくりしたんだけどー。
師匠であるミーアの大切な人が二人もここにいたということ。それは、恐らくは、自分たちが逃げる先をミーアが把握していたということだろう。
その正確無比な予測に、オウラニアは改めて感銘を受けてしまうわけだが……。
――でも、パティは、あの男の人のほうを見て、明らかに驚いてるわー。なんだか、わけのわからないことを言ってるし―、ちょっと混乱してるみたいだわー。
オウラニアが視線を向ける先……。
「……ここが未来の世界なら、ハンネスが大人になってることだってあり得ること……あれ? でも、ハンネスはもっと年をとってるはずじゃ……? 私が、ミーアお姉さまのお祖母ちゃんなんだから……ハンネスは……あれ?」
いつでも冷静沈着なパティが、目をグルグルさせていた。
一方の青年のほうはというと、パティのほうをジッと見つめてから……おもむろに立ち上がった。
「ああ……」
薄く開いた口から零れ落ちたのは、深い、深いため息だった。
よろよろ、とパティに歩み寄り、そこで膝を付いて……。パティの顔を見つめて……。
「まさか……ああ、まさか……本当に……。本当に、お会いできるとは思っていませんでした」
そうして、パティの小さな手を両手でギュッと握りしめる。
「お会いできて、心から嬉しいです。姉上」
――姉上……って、どういうことかしらー? あんなこと言われて、パティも驚いてるんじゃー?
などと、心配になって見つめていると、予想通り、パティは驚愕に瞳を見開いていた。それから、なぜか、疑わしげな、ジトッとした目つきで青年を見つめて……。
「あね……うえ?」
――そうよねー。私よりも年上っぽい男の人に姉上とか言われても困っちゃうわよねー。
オウラニアが納得感に浸っていると……。
「ハンネスは……お姉ちゃんって呼んでたはず……」
……パティがなにやら、わけのわからないことを言いだした!
――なっ、なに言ってるのかしらー、パティは。っていうか、これって、あの男の人は、どう反応するのかしらー? ちょっと気になるわー。
オウラニアは、すっかり興味津々だ。
これからどうしようか? とか、どうやって身を隠そうか? とか、不安は一気に吹き飛んでいた。
ヘンテコなことを言いだしたパティに対して、青年はパチパチと目を瞬かせていたが……すぐに、困った様子で頬をかき、
「あ、ああ……ええと……さすがに、その……この歳でお姉ちゃん、とは呼びづらいので……」
さらに、よくわからない反応を返す。
「……この歳?」
「ええ。もう、お祖父さまと呼ばれても、おかしくはない年になりましたから……」
そうして、青年は笑った。
もはや、はたで聞いていたオウラニアは、首を傾げることしかできない。
――お祖父さまと呼ぶには、若いと思うけどー、あれは、謙遜なのかしらー? っというか、それでパティをお姉ちゃんって呼ぶとか……どういうことー?
「じゃあ、やっぱり、あなたは、ハンネス……?」
青年はパティに深々と頷いてみせて、それから、こちらに目を向けて……。
「そうですね。改めて自己紹介を。私はティアムーン帝国、クラウジウス候ハンネスと申します。以後、お見知りおきを」
「あ、あー、えーっと、オウラニア・ペルラ・ガヌドス、ですー。えーっと、それでー、あなたとパティの関係って?」
「ああ……そうですね」
チラリ、とパティのほうを青年が見た。パティは小さく頷いてから、ゆっくりと首を振ってみせて……。それを確認した青年は……。
「私の姉の娘が、この子なのです。いや、昔の姉の面影があって、ついつい懐かしくて、姉上などと呼んでしまいましてね。ははは」
誤魔化すように笑った。
――うーん、なにか、隠してるみたいに見えるけどー、今は、気にすることではないのかしらー?
なんとなく釈然としないまでも、一応は納得しておくオウラニアであった。
さて、所変わって……。
ガヌドス港湾国内にある、小屋での一幕。
仄かな明かりに照らされた室内で、男たちが言い争いをしていた。
「おい、どうして、オウラニアを連れてこなかった?」
押し殺した声で、問い詰めるのは、蛇の暗殺者カルテリアだった。巻きなおしたバンダナを揺らしながら、燻狼に詰め寄る。
対して燻狼は、とぼけた口調で……。
「あれ? 言いませんでしたっけ? 連れてこれなかったんだって。手が足りないもんで仕方なく……」
っと、その言葉を途中で遮り、カルテリアがドンッと机を殴りつけた。
倒れそうになった杯を、慌てて掴んで、燻狼が抗議の声を上げる。
「おっとと、気をつけてくださいよ。せっかくの酒が……」
「ふざけるな。ガキの一人でも殺すか、さもなければ、傷をつけて脅せばよかったではないか。しかも、護衛や御者も生かしておいただと? 貴様、それでも蛇か!?」
「護衛二人は、オウラニア姫が、ヴァイサリアンと思しき男の手によって逃げた、ということを証言させなければならなかったから、生かしておいた。ヴァイサリアンの助けが来たのだから、ヴァイサリアンの子どもを殺すわけにもいかず、また、子どもを殺されたら自分も死ぬとオウラニア姫殿下に脅された。だから誰も殺さなかった。なにも不自然なところはないでしょうに。っというか……」
そこで、燻狼は上目遣いにカルテリアを睨んで、
「あなたが、ディオン・アライアを退けて、国王陛下の首を刈り取ってれば、計画通りにいっていた……ってことを忘れてませんかね?」
「うぐ……」
いかにも痛いところを突かれた、という顔をするカルテリアに、燻狼はやれやれと首を振る。
「どちらかというとあなたのほうが蛇らしくありませんよねぇ。感情をそんなに表に出すとか……。まったく蛇らしくない」
まぁ、巫女姫さまならば、色々な蛇がいたほうが混沌としていていい、とか言いそうですけど……などと心の中でつぶやきつつも、燻狼は続ける。
「やれやれ、どちらにしろ、オウラニア姫殿下は、連れてくるわけにゃいかなかったですねぇ」
「なぜだ?」
ギロリ、と睨んでくるカルテリア。それを涼しい顔で受け流し、
「いや、だって、あなた殺しちゃうでしょう? 恨みの募る男の血を引いた娘ですしねぇ……それが、たとえ妹君だったとしても、あっさり殺したくなっちゃうでしょう?」
カルテリアは、それを聞き、なんとも嫌な顔をする。
「嫌なことを思い出させるな。自分の中にあの男の血が流れていると思うだけで、反吐が出る」
「ほらね。そんな様子じゃ、オウラニア姫殿下に対してだって同じですよ。人質としても、犯人候補としても、殺しちゃ意味がないってのに、そんなの関係なく殺したくなるでしょう? だから、今のところは、泳がせておけばいいんですよ」
「必要な時だけ連れてくればいいと? だが、そう上手くいくかな?」
「場所のほうは、お仲間が調べてますよ。まぁ、ヴァイサリアン族の蜂起までの五日間、のんびり待ちましょうや」
そう言って、燻狼は机の上に並べた皿に手を伸ばす。
奇しくもそこにのっていたのは、女王烏賊の干物だった。




