第八十七話 噛めば噛むほど味が出る姫殿下
さて、時間は少し戻り。
オウラニアは走っていた。
ヤナとキリルを追って、狭い路地裏を懸命に走る、走る。
ガヌドス港湾国は、あまり広い国ではない。
国民の数も多くはなく、国自体も決して裕福な国とは言えない。
王女であるオウラニアからして、ティアムーンの四大公爵家などには遠く及ばない、質素な生活をしているのだから、この国で金持ちと言っても大して裕福ではない。
されど……このような小さな国であったとしても、貧富の差は厳然と存在する。
家を持つ者と持たざる者。金を持つ者と持たざる者。
明日どんな物を食べて舌を楽しませようかと考える者と、今日、子どもが餓死しないためにどうすればいいか、頭を悩ませる者。
オウラニアが踏み込んだ場所は、今まで彼女が一切見たことのなかった、貧しい人々の町だった。
小さな家々が雑然と建ち並び、その間を道とは呼べないような細長い道が曲がりくねって続いていく。ドアのない家の中からは、住人たちが黙ってこちらを見つめていた。
そして、なにより一番、きつかったのは臭いだった。
オウラニアは、別に、温室育ちの姫ということはない。
ガレリア海に船を出させて、釣りをしたり、魚市場にだって顔を出したり、どちらかと言えば、王宮に留まっていない姫だった。
そんな彼女だから、日夜、花の香りに包まれて、などと言う優雅な生活を送っているわけではない。魚市場の少し生臭い香りも、波に乗って運ばれてくる潮の香りも、彼女は嗅いだことがあったし、嫌いではなかった。
だけど、ここには……死の香りがした。
ゴミが腐った臭い、病の臭い、暴力の臭い、死の臭い。
嗅ぎ慣れない臭気に、オウラニアは顔をしかめる。
――ここを通り抜けるのは、少し辛いけどー、でも、逆に追手を撒けていいかもしれないわー。普通は、こんなところ来ないだろうしー。
「オウラニア姫殿下、大丈夫ですか?」
ふと見れば、ヤナが心配そうな顔をしていた。
「ええー。大丈夫。ちょっと臭いがきつかっただけだからー」
「はは。そうですよね。久しぶりに来たけど、確かに少し臭いが気になります」
ヤナの浮かべた笑みの中に……微かに傷ついたような色を見つけて、オウラニアは、一瞬、疑問に思い……直後、気付いて立ちすくむ。
――あ、そうかー。ここって、ヤナたちが暮らしていた場所なんだっけー。
そう、まさに、ヤナは、このような世界で生きてきたのだ。幼い弟を守りながら、懸命に、自分たちだけで生きてきたのだ。
――二人だけじゃないわー。ここには、他にも子どもたちが暮らしててー。もしかしたら、この二人みたいに親がいない、子どもだけで生活してることだってあるかもー。
そして、その中には二人と同じく、隠れ住むヴァイサリアンの子どもたちだっているのかもしれない。
オウラニアの目の前に広がるのは虐げられた弱者と、その弱者にさらに虐げられる弱者だ。
ヴァイサリアンの隔離地区のことだけ解決すればいいと思っていたが、そんなことはなかった。こんなにも身近な町の中にだって、解決されなければならない問題があったのだ。
――そう言えばー、ミーア師匠が帝国ではじめに行った改革は、貧民街に足を運ぶことだったって聞いた記憶があるわー。あれは、確かー、エメラルダお姉さまが話してくれたはずでー。
エメラルダは、皇女なのに皇女らしくないと、その当時は怒っていたものだった。けれど……。
――ミーア師匠は足を運んだだけでなく、そこに病院を作って、貧しい人たちを助けようとしたんだったわー。
今ならば、わかる。それが間違いなく、皇女の為すべきことであったと……。
その地を治める皇帝に連なる者、王に連なる者の、力を与えられた者の……その為すべきことに相応しいことであったと……。
オウラニアは、そう思って……。
――それに、特別初等部のことだってそうだわー。
セントノエルで見てきたことを思い出す。
こういう場所で暮らす、毎日、生きることだけで必死な子どもたちを、救済する試み。
それは、紛れもなく統治者の為すべきこと。与えられた力で為すべきことだった。
――やっぱり違うわー。ミーア師匠。普通の王族とは一味違う、知れば知るほど味わい深くなる……ふふ、噛めば噛むほど味が出る女王烏賊の干物みたいな方だわー。
一応言っておくと、褒め言葉である。
ミーアへの溢れんばかりの尊敬の念を新たにすると同時に、オウラニアは、王族の為すべき役割に、改めて圧倒される思いがした。けれど、
――大丈夫、闇雲に進まなければならないわけではないわー。
それは、さながら、暗い海に漕ぎ出す船乗りの気分ではあったが……その胸に不安はなかった。目の前を照らす、導のごとき光が見えていたからだ。
――ミーア師匠をお手本に、改革を進めていけばいいんだわー。
「姫殿下、あっちです」
キリルが指さした先に、オウラニアは目をやった。そこにあったのは……。
「あらー? あれって-、教会?」
「はい。あたしたちが、お世話になったところです」
答えつつ、ヤナは、少しだけ緊張した顔で、教会の扉をノックした。しばらくして現れた神父は、ヤナたちのほうを見て、眉をひそめた。
「お前たち、いったいどうして……それに……」
っと、そこで神父は、オウラニアの顔を見て怪訝そうな顔で見つめてきて……。
「なぜ、オウラニア姫殿下がこのような場所に……」
「あらー? もしかして、私のこと知ってるのー?」
「はい。こちらの教会に着任した際、王宮にご挨拶にうかがいました折、一度お目にかかっております」
「あらー? それはー、ごめんなさいね」
まーったく記憶にないことを、ちょっぴり反省しつつも、神父の案内で、教会の中に入る。っと、見覚えのある人物が、教会の子どもたちを集めて、なにやらやっていた。
腰に手を当て、堂々たる演説を披露していた少女は、オウラニアたちのほうを見て、目を丸くした。
「あれ……? パティ、それに、みなさんも、どうして……?」
きょっとーんと首を傾げるベル。よく見れば、奥の机の前にはアベルと……。
「ん……?」
首を傾げる、見覚えのない青年の姿があって……。
「…………はぇ?」
隣にいたパティが、ヘンテコな声を上げるのが聞こえた。
今週はミーアが頑張りすぎたため、来週は、ミーアの登場が少ない話をやる予定です。
月曜日だけガヌドス国王と殴り合いをする予定なのですが、その後、ミーアは一週間秋休みに行ったと思っていただければ幸いです。