第七十六話 柔軟かつ柔軟なる帝国の叡智
ミーアは、突然の事態に、一瞬、頭が真っ白になる。
瞬きを、一つ……二つ……三つした後、
――ななな、どどど、どういうことですの? どうなっておりますの? なぜ、オウラニアさんが、おお、落ち着かなければなりませんわ。ここは、深呼吸、深呼吸。
こひゅー、こひゅーっと深呼吸し、ミーアは、改めて考えようとして……。
――どどど、どうなっておりますのっ!?
まだ、混乱していた!
「おっ、お父さまー? いったい、なにをー?」
オウラニアも負けず劣らず困惑した様子で、父に歩み寄ろうとする。が、そちらに目を向けることなく、ガヌドス国王が言った。
「お前が、何らかの事情で私を害そうとした……。お前には、私を排してやりたいことがある……そういうことではないか?」
「え……?」
一瞬、言い淀んだオウラニアを見て、ミーアは事態の悪化を予測する。
――ああ、まずいですわ。確かにオウラニアさんはヴァイサリアンの迫害についてなんとかしようとしている……。それをきっかけに、疑惑を強固なものにされてしまうかも……。
ミーアは、再び大きく深呼吸。それから、堂々たる足取りで一歩前に出る。
兵たちの視線が一斉に飛んでくるも、それを涼しい笑みで受け流し、見つめる先はガヌドス国王、ネストリ・ペルラ・ガヌドスだ。
「なんだ、お前は……」
「ミーア師匠ー」
オウラニアの助けを求めるような、ちょっぴり情けない声を聞きつつ、ミーアはスカートの裾をちょこんと持ち上げ……。
「お初にお目にかかりますわ。わたくしはミーア……」
落ち着き払った自己紹介を……。
「ミーア・ルーニャ……」
噛んだ。全然、落ち着いてなかった!
「ティアムーン! ティアムーン帝国皇女、ミーアですわ」
そうして、ニッコリ、何事もなかったかのように微笑んでみせる。
噛んでなどないですよー? と言う顔を、よゆーしゃくしゃーくで作れるぐらいには、修羅場を潜り抜けてきたミーアなのである。
「ティアムーン帝国の……ミーア姫だと……?」
ガヌドス国王は、ミーアを見、それから、その後ろに立つルードヴィッヒに目をやってから……。
「これは、ご丁寧なご挨拶痛み入る。けれど、ミーア姫殿下が、このような場所でなにを?」
「ええ。実は、お忍びでガヌドス観光に来ておりましたの。セントノエルでオウラニアさんとお友だちになって、そのご縁で」
「ほう。観光。その一環で今日の儀式も、こっそりと見に来ていたと?」
「ええ。昨日は市場のほうでお買い物も。お土産に女王烏賊を干した物を買わせていただきましたわ。あと、そう、ポヤァ! あれは、なかなかに奥深いお味でしたわ。プリプリして、潮の香りが癖になりそうで……」
「ほほう、ポヤァを食されたと……それは、なかなかに通な……」
「お土産にも干した女王烏賊……それはお目が高い」
辺りが、一瞬、ざわつく!
そうして、ミーアに感心の目を向けてくるのは、どちらかと言うと、やや年配のおじさん兵士や、文官たちであった。
「ええ。ガヌドスグルメを堪能いたしましたわ」
そんなことを言いつつミーアが微笑めば、ざわつきは、若干、好意的な雰囲気を帯びる。
おつまみを通して、ガヌドスの民と心を通わせるミーアである。ミーアは渋い珍味もいける、万能のお姫さまなのだ。
「それはそれは、ガレリア海の幸を堪能いただけたなら重畳なこと。されど……」
っと、ガヌドス国王は鋭い眼光をミーアに向けてくる。
「無関係なことにまで、口を差し挟まないでいただきたいですな」
「あら、無関係とは異なことを。あなたの命をお救いしたのは、他ならぬわたくしの剣。ディオンさんですわ。それに、オウラニアさんは、わたくしの……」
弟子……と言いかけて、ミーアは思わず踏みとどまる。
弟子を守るために、師が一肌脱ぐ……。結果、生まれた功績はミーアに帰されることとなる。それは、よろしくない。功績は、なにか別のものに転嫁する必要がある。
そうして、ミーアが口にしたのは……。
「そう、学友。セントノエルで共に学ぶ学友ですわ。そんな友の困っているのを黙って見過ごすなどできませんわ! セントノエルで学ぶ者として!」
大陸が誇る学府セントノエル。そこに、これからの功績を擦り付けに行くスタイルである。
「ミーア師匠……」
一方のオウラニアは、ミーアが助けに来てくれたのが嬉しかったのか、瞳をウルウルさせていた。
「学友……ふふふ、学友か。オウラニアになにを吹き込んだのかは知らぬが……」
国王は、一切、オウラニアには目を向けずに、兵たちに言った。
「ガヌドスで起きた騒動は、ガヌドスで解決する。余計な口を出さないでいただこう。お前たち、なにをしている。さっさとオウラニアを捕らえよ」
「なっ……」
ミーアの介入を意にも介さず、王は言った。
「お父さま……どう、して……、そこまで……」
呆然と目を見開くオウラニアの、その細い腕を、兵士が掴もうとして……。
「やめろ!」
その時だった。
兵たちの間に割って入るように、小さな男の子が駆けこんできた。
「オウラニア姫殿下をいじめるな」
両腕を広げ、兵士たちを睨むのは、キリルだった。
「キリル、だめ!」
遅れて、ヤナも弟のもとへと走る。そして、それを止めようとパティも……。
その姿を見て……ミーアは一瞬、違和感を覚える。
弟が危機に陥りそうになっているのだから、ヤナが行くのはわかる。けれど、なぜ、沈着冷静なはずのパティがあんなに焦っているのか……?
ふと見ると、ルードヴィッヒの顔にも焦りの色が見て取れて……。
「あっ……」
遅れて、ミーアは気が付いた。
――あ、まずいですわ。あの子たち……ヤナとキリルをオウラニアさんのそばに行かせたら……。
と思うも、後の祭りだった。
「んっ? お前は……」
っと、走るヤナの腕を、一人の兵士が捕まえる。そのまま、力任せにヤナを振り向かせると、乱暴に髪を掴み……、
「あぅっ!」
苦痛に顔を歪ませるヤナの、その額を見て、兵士が声を上げた。
「陛下、こいつは……」
「ああ……」
国王は、それを見て……一瞬、なんとも言えないような顔をした。怒りとも違う。憎しみとも違う。それは、諦めのような、あるいは……。
「ヴァイサリアンの子ども……か。決まりだな」
吐き出すように言ってから、ガヌドス王は、兵士たちに向けて言った。
「このとおり、今回のことは、我が娘オウラニアのしたことに間違いはない。重ねて言うが、あの下手人を追う必要はない。良いな?」
そう指示を出すと、王は踵を返した。
「お待ちくださいー。お父さま、この子たちは、なんの関係もー」
その声が、聞こえていないのか……国王は振り返ることはない。
兵士たちが乱暴にオウラニアを、そして、さらに手荒にキリルを、ヤナとパティまで拘束する。
「どうしますか? 姫殿下、今なら力づくで助け出すこともできますが……」
かたわらの、ディオンに問われ、ミーアはハッとする。それから……。
「乱暴な手段に出れば……むしろ危険な気がしますわね。今は……」
と言ってから、
「ガヌドス国王陛下!」
ミーアの呼びかけ。今度も王が振り返ることはなかったが、兵士たちの視線は一斉にこちらに向く。
「オウラニアさんは、我が友。そして、その子どもたちは、セントノエルの生徒であり、同時に、わたくしの庇護下にある者たちです」
堂々と、その場にいる全員に聞こえるように、高らかに言う。
「疑いがあるというのであれば、拘束するのは仕方ないこととしても、乱暴狼藉は許しませんわ」
ミーアが視線を向ける先、キリルに手を上げようとしていた兵士が、慌てて動きを止める。
「オウラニアさんのことも、わたくしが必ずや疑いを晴らしてご覧に入れますわ」
「ほう……! 帝国の叡智の閃きを、直接、見せてもらえるとは興味深い」
そこで、初めて国王が振り返る。その顔には、皮肉げな笑みが浮かべられていた。
「ええ。必ずや。ですから、それまでの間……オウラニアさんも、子どもたちも、丁重に扱っていただきたいですわ」
かくて、柔軟かつ柔軟な海月の思考力を持つ、めいたんてい……ミーアは事件解決へと動き出したのだった。