第七十四話 北網の儀の暗殺騒動
北網の儀……。それは、ガヌドス港湾国に伝わる伝承に基づいて行われる儀式であった。
その昔、ガレリア海にて、漁師を束ねていた男がいた。
冬のある日、男は漁師を率いて漁に出る。けれど、夜通し働いても、魚は一匹も獲れなかったという。
意気消沈して帰ってきた漁師たちの前に、突如として現れた客人が、船の反対側、北側に網を降ろすように助言したという。
漁の熟練者たる漁師たちは、客人の言うことを馬鹿にして聞かなかったが、唯一、漁師たちの長だけが北側に網を降ろした。すると、大量の魚が網にかかり、船が沈みそうになったという。
男たちが浜辺に目をやると、すでに客人の姿はなく……。あれは神の使いだったのではないか? と考えた彼らは、大漁感謝の祭りをささげることになったという。
経験のみに頼らず、謙虚に神に頼り、その後で、経験と技術を振るえ……というような結論になるのだとか。
「なるほど……その時の伝承に基づいた儀式、と……」
「はいー。冬の大漁を願う儀式ですねー」
ミーアたちは、港の一角で、その儀式を見学していた。
その視線の先、ガレリア海には、何艘もの船が浮かんでいた。
その中の一隻、最も立派な船の船首に立つのが、ガヌドス国王、ネストリ・ペルラ・ガヌドスだった。
「お父さまが乗ってる船が、漁師長の船ですねー」
「なるほど。立派な船ですけれど……実際に漁に赴くには、いささか装飾過多な印象ですわね」
大きさは、ちょうどエメラルドスター号と同じぐらいだろうか。船首に立派な船首像を付けた、漁師の船と言うには、いささか立派過ぎる船だった。
その周囲に無数に浮かんでいる、実際に漁で使っている船と比べてしまうと、なおさら、違和感が際立っているようだった。
「この儀式に参加した漁師は、この冬、大漁にありつけるってー、そんな言い伝えがあるから、国中の漁船が集まってくるんですー」
「ご利益にあやかりたい、ということですわね。なるほど、なかなかに面白い儀式ですわ」
そうこう言っている間にも、国王が船の半ばまで進んできて、網を掴んだ。
「まず、南に落とし、それから、北に落とすんですー」
と、オウラニアが手順を説明してくれた……まさにその時だった。
「あら……あれは?」
ミーアの目が、異様なものを捉えた。
それは、海の上を移動する黒い影だった。
はじめは、目の錯覚かと思った。けれど……違う!
船から船へと飛び移りながら、国王のもとへと駆ける男の姿は、幻ではなかった。
一艘、二艘……。
頭に巻いたバンダナが、潮風になびいていた。
三艘、四艘……。
目を引くような長身を、鞭のようにしならせながら、さながら海の上を駆けるかの如く……。
五艘、六艘……。
ただでさえ、海の上。揺れる船上のこと。
並の護衛では見えてはいても反応はできず。そもそも、そのような場所での襲撃は、想定すらしておらず。
儀式であるがゆえ、王の周りに護り手の姿は少なく……。
七艘……八艘! ……跳躍!
空中で思い切り体をしならせ、一本の分厚い曲刀を思い切り振り上げて!
「覚悟しろ、ガヌドス国王! ネストリっ!」
その声に、顔を向けた国王は……一瞬、呆けたような顔をした。
眼前に迫る凶刃。避ける事すらできず、ただただ、その場に立ち尽くす国王。
その光景を見たミーアは、思わず、つぶやいた。
「……こっ、こわぁ」
っと。
ミーアの視線が向かうのは、三日月のごとく仰け反り、剣を振り下ろさんとする暗殺者……の、さらに斜め後方だった。そう、そこにいたのは……。
「はたして、どちらが恐ろしいのかしら……。あの速度で迫って来られるのと……ディオンさんに後ろから追いかけられるのと……」
その声が聞こえたわけではないだろうが、暗殺者は、なにかを察したかのように、体をよじる。っと、そこにいたのは、
「ははは、さすがに気付くか?」
同じように、剣を振り上げたまま、斬りかかってくるディオン・アライアの姿があった。
「貴様っ! 帝国の叡智のっ!」
暗殺者が辛うじて構え直した剣に、ディオンの斬撃が――ぶち当たる!
がいんっと、重たい鋼の音。同時、暗殺者の男が吹き飛ばされる。
船の上、一度、二度、と跳ねながら、暗殺者は体勢を立て直そうとする。が、それを許すまいと、追いかけてきたディオンの蹴りが、暗殺者の肩を打ち抜いた。
「がはっ!」
思い切り、背中からマストに叩きつけられた暗殺者は、苦しげに息を吐きだした。
「おや、見覚えのある顔だな。確か、旧クラウジウス領で会ったことがなかったかな?」
「帝国の叡智の剣に覚えていてもらえたとは、光栄だ、とでも言えばいいのか?」
言いつつ、よろりと立ち上がる暗殺者。
「意外と記憶力がいいんじゃないか?」
煽るような笑いに、ディオンはニヤリと口元を歪めて、
「いやぁ、実際にはギリギリだったよ」
「ギリギリ?」
「そうさ。なにせ、狼も連れていなければ、実力自体もそこそこで、地味なことこの上ない。実に覚えづらかったものでね」
「貴様っ!」
激高する暗殺者に、ディオンは剣の切っ先を突きつける。
「さて、あの時の続きと行こうか、蛇の暗殺者。僕に覚えておいてもらえるように、せいぜいあがいてみせろ!」
言葉と同時、ディオンが踏み込む。
高々と振り上げた剣が、暗殺者に向かって振り下ろされた。




