第六十三話 エメラルダお姉さんは翻弄されないのである
さて、時は少しだけ遡る。
ミーアが乗った馬車を見送ったエメラルダは、屋敷に戻りつつ、考え事をしていた。
「しかし、シオン殿下に、ガヌドスに行きましょうと言っても、聞いていただけないかもしれませんわね……。とすると……」
腕組みしつつ、ふむ、と唸る。
「エシャール殿下と、ガヌドスの別邸に遊びに行く……というのがよろしいかしら……? シオン殿下には、そちらに追いかけて来ていただくということで……。ミーアさまの誕生祭までに帰って来られれば……」
っと、シオンを上手いことガヌドスに連れていく方法を練りつつ……エメラルダは別のことを考えていた。
「しかし、ガヌドス港湾国が、まさか、そんなことになっているだなんて、思いもしませんでしたわ」
毎年、夏にはガレリア海に遊びに行っていたエメラルダである。
ガヌドスの王都だって、何度も訪れていたし、町を歩いたことだってある。にもかかわらず、隔離地区のことなんか聞いたこともなかった。
「それに、オウラニアさんも、まったく話してくれませんでしたわ……。少しでも相談してくれればよかったのに、水臭い……」
っと、そこで、エメラルダは、ふぅっとため息を吐き……。
「いえ……かつての私であれば、言っても無駄だと思われたかもしれませんわね。それに、オウラニアさんもきっと、ミーアさまに変えられたはず……。だから、話す気になったんですわね。ということは……結局は、さすが、私の親友ミーアさま、という結論になるのかしら……?」
そう考えると、なんだか、嬉しくなってくるから不思議である。
「それにしても、お父さまは……ガヌドスのことをご存知なのかしら?」
次に気になったのは、そのことだった。
ガヌドス港湾国と最も繋がりが深い帝国貴族は、間違いなく、グリーンムーン家である。かつてはイエロームーン家のほうが繋がりが強かったらしいが、今は、文句なくグリーンムーン家のはずで。だからこそ……。
「お父さまが知らない……ということがあり得るかしら?」
エメラルダは父のことを知っている。父は、切れ者ではないにしても、決して無能者ではない。自分と付き合いのある者たちの行いを見過ごすとは考えにくいわけで……。
「知っていて黙認した……ということかしら……」
そう考えると、気持ちが暗くなってしまうエメラルダである。
その日の夕食を終え、口元を拭きながら、小さくため息。それから、席を立とうとしたエメラルダだったが……。
「あの、エメラルダさん、どうかなさいましたか?」
エシャールが話しかけてきた。
眉をひそめる小さな婚約者に、エメラルダは、優しく笑みを浮かべてみせる。
「いいえ、なんでもありませんわ。少し考え事がございましたの。大したことではありませんわ」
「そう、なのですか……? でも……」
っと、エシャール、何事か言いたげな顔をしていたので、
「大丈夫ですわ。なにも心配はありませんわ」
エメラルダは、もう一度、安心させるように言った。
それを聞いても、エシャールは浮かない顔をしていたが……やがて、なにかを思いついたのか、パッと顔を明るくした。
「そうだ。エメラルダさん。少しだけ、ここで待っていてください」
有無を言わさぬ口調で言うと、エシャールは小走りに食堂を出ていった。
「はて……?」
と首を傾げつつ、待つことしばし……。
エシャールに続いて、トレーにティーセットを乗せたニーナがやって来た。
「あら……? それは……」
「サンクランドの茶葉です。ニーナさんにお願いしていたものが、届いてました。とてもいい匂いで、気分が落ち着くから……」
そう言って、エシャールはティーポットを持った。
「まぁ! エシャール殿下が手ずから? そのようなこと……」
慌てて立ち上がろうとするエメラルダに、彼は小さく笑みを浮かべて、
「ニーナさんにお願いしてもいいと思ったんですけど、ぼくが淹れて差し上げたかったので……」
そう言って、優雅な手つきで、カップに紅茶を注いでいく。
お砂糖を一杯入れて、かき混ぜてから、エシャールは言った。
「少し甘味をつけるといいみたいなんですけど、二杯目を入れるかどうかは、お好みで」
そうして、エメラルダの前にカップを置いてくれる。
カップを手に取ったエメラルダは、冷めないうちに、と紅茶に口を付けた。
すぅっと鼻をくすぐるのは、心地よい、すっきりとした香り。舌の上に柔らかな甘みと、微かな酸味が広がるのを感じながら、エメラルダは小さくため息を吐く。
「ああ……この紅茶……とても落ち着きますわ」
「気に入っていただけたなら、よかったです。実は、この紅茶、シオン兄さまに嫉妬していた時、よく飲んでいたんです」
過去を恥じるかのような言いように、エメラルダは思わず口を開きかけるが……。エシャールは穏やかな顔で首を振り……。
「昔の話です。今は、このお茶に頼ることは、もうほとんどありません。でも……」
それから、静かにエメラルダを見つめてきた。
「エメラルダさんには必要なんじゃないか、と思ったから……」
どこか気恥ずかしげに、顔を赤くするエシャール。
「まぁ……エシャール王子……」
その……なんとも純粋な心遣いに、エメラルダ、思わず、キュキュンッとしてしまう!
イケメンの、弟と同い年ぐらいの王子さまが、自分のために紅茶を淹れてくれるというレアなシチュエーションっ!
かつて、イケメン護衛に囲まれつつ、海水浴だの、街歩きだのをしていたエメラルダを、未知なる興奮が襲う!
――ああ、駄目ですわ。エシャール殿下は、まだ子ども。お子さまですわ。この程度のことで心が揺れるはずもありませんわ。それに、私と婚約者にという話は、有耶無耶になっているわけで……。でも、可愛い……。
などと、目をグルグルさせるエメラルダだったが……、そこで小さく咳払い。それから、気分を落ち着けるため、もう一度、紅茶を一口。
ほふぅー、っと息を吐き……。
「感謝いたしますわ。エシャール殿下。このお紅茶、とても美味しいですわ」
落ち着いた、お姉さんスマイルを浮かべる!
そう、エメラルダは、これでもお姉さん。年下の男の子に翻弄されるなどということは、決してないのである。ないのである!
でも……。
「ふふ、淹れて、良かったです」
嬉しそうに笑うエシャールに再び、ときめいてしまうのだった。
――でも、そうですわね。私もまた、ミーアさまに救われた者ですもの……。
エシャールの顔を見て、小さく頷く。
――エシャール殿下に偉そうに言ってしまった手前、なにもしないわけには参りませんわ。
あの日、サンクランドからティアムーンにやってくる途上でのこと……。エメラルダはエシャールに言ったのだ。
許された者、救われた者に相応しく生きることを心掛けよ、と。
その言葉もあったからか、エシャールは頑張っていた。慣れないミーア学園で、この帝国の地で、なにかを成さんと懸命に勉学に励んでいた。
だからこそ……。
「私も、しっかりしなければなりませんわ。ガヌドスのことを、調べなければ……。とりあえず、お父さまの部屋……いえ、ガヌドスの別邸のほうかしら……?」
静かに気合を入れるエメラルダであった。