第八十五話 ミーア姫、勘づく!
静海の森、ルールー族の隠れ里。
二百人近い者たちが住まう集落は、前の時間軸において悲劇の地として知られている。
姫殿下のわがままによって壊滅した里……そのようにあだ名されるその場所では、凄惨な虐殺が行われることになる。
ルールー族の屈強な弓兵の前に大きな犠牲を出した帝国軍は、事態の鎮静を図るため、森を焼き払い、ルールー族を皆殺しにするのだ。
各地に出稼ぎに出ていた部族の生き残りたちは、帝室に対する怒りを胸に革命軍に身を投じ、熟練の弓兵として、多くの帝国将兵を血祭りにあげることになる。
凄惨な虐殺を温床とし、数多の復讐者を生み出した血なまぐさい土地。
されど、少なくとも現時点においては一定の静けさを保っていた。
それが永遠のものではなく、戦の前の張り詰めた空気、いわゆる嵐の前の静けさであると、知っていた部族の戦士たちは、みな一様に緊張の面持ちをしていたのだが。
「帝国兵が、引いたじゃと……?」
前線に詰めていた見張りからの報告に、族長がうめくような声をもらした。
「それは、我らを誘い出すための罠ではないのか?」
戦士の一人が疑問を呈するが……。
「十分に考えられますが……。しかし、陣はもぬけの殻、食料などもそのままになっており、いささか奇妙に思います」
そう報告した見張りの顔には困惑があった。
彼とて、昨日今日、成人を迎えた若造ではない。戦が始まるか始まらないか、部族の未来を決める大切な時に、見張りを任せられる男なのだ。
単純な罠を見逃すようなことはしない。
「いずれにせよ、様子見、じゃな」
腕組みをした族長は、蓄えた髭をショリショリと撫でてから、重々しく言った。
それから、傍らに控える少女に視線を向ける。
「せっかく来てもらったのに、すまなんだな。辺土伯の話を帝国軍の部隊長にも聞いてもらいたかったのじゃが……」
「いえ、一族の危機であれば、駆けつけるのが当然のこと……」
少女は静かな表情で頷いて見せた。
「ティオーナ様にお願いして、もっと上の方に調停をお願いすることも考えていましたが……」
「そうだな……、場合によってはそれも考えねばならぬが……。果たして我らを助けようなどと言う奇特な貴族が、ルドルフォン伯以外にいるものじゃろうか?」
ルールー族は、しょせんは辺境の一部族に過ぎない。そのようなものをわざわざ助ける道理はない。そう思う族長であったが……。
「族長は悲観しすぎです。貴族様にだって、ご立派な方はいますよ。それに……」
「失礼します、族長、森に来た娘がこれを落としていったんですが……」
「なんじゃ……むっ! その髪飾りは…………」
見張りの手にしていたものを見た瞬間、族長の眉間に、深いしわが刻まれた。
――う、うう、なぜ、こんなことに……。
馬に揺られつつ、ミーアは、身を固くしていた。その目の前には、すらりと高い背中が見えていた。
夜の乗馬は危険ということで、ミーアは現在、ディオンと二人乗りしているのだ。
きちんと、掴まっているように言われてはいるのだが、下手なところに掴まろうものなら怒りを買ってしまいそうで、緊張に体を固くするミーアである。
「いったん陣に寄りますよ、姫殿下」
「陣に? なぜですの?」
「松明を補充する必要があるからですよ。まさか、明かりもなしに、夜の森で探し物をするつもりだったんですか?」
それから、呆れたようなため息が返ってきた。
「肝心なところが抜けてますね、姫殿下」
――抜けてる? なんのことですの?
きょとりん、とミーアは首を傾げた。
「そもそも夜に探し物をしようというところからして、ダメですよ。夜の森に行く言い分としては雑。細部の詰めが甘いですね。うちの副隊長ぐらいだったら騙せるかもしれないけど……」
そう言って、ディオンは肩越しに振り向いた。
「こっそり一人で、向こうの部族と話つけに行くっていうんでしょう?」
「………………は?」
「あれ? 違うんですか? ゆっくり酒飲んでるところを連れ出されたからには、そのぐらいは期待してもいいものと思ってたんですけどね」
不意に、ディオンの背中から、圧力のようなものが立ち上ったような気がした。
背筋に冷たい何かが走るのを感じつつ、ミーアは慌てて口を開く。
「そっ、そそ、そうですわ。もちろんですわ。ディオンさんに協力していただくんですから」
「だと思った。やっぱり、姫殿下は面白いな!」
あはは、っと愉快そうに笑い声をあげるディオン。と同時に、圧力は霧散する。
「まぁ、どうするつもりなのか知らないけど、お供しますよ。場合によっては地獄までね」
振り返るディオンの顔を見て、ミーアは、遅まきながら気が付いた。
――あら? これって、もしかして、ちょっとヤバイ状況なんじゃ……?
そうして、思い出す。
前の時間軸で自分が、目の前の男に殺されたのだということを。
――なっ、わたくし、いったい何を?
油断があったとしか、言いようがなかった。
兵を引いただけで、すべてが片付いたと……、髪飾りを探しに行くのなど、あくまで念のためだと……。
その思い込みが、ミーアの危機察知能力を鈍らせたのだ。
――これは、あれですわ。前菜がおいしいからって、食べ過ぎて、お腹いっぱいになってしまって、本当においしいデザートを食べそこなうという……、って、上手いこと言ってる場合じゃないですわ!
そもそも、あんまり上手くもないわけだが……。
そんなわけのわからないことをつぶやいてしまうほど、ミーアは混乱していた。