第六十一話 過去への一撃
ミーアは、ローレンツにソファを進め、自らも対面に座る。隣にはパティがちょこん、と腰を下ろし、ローレンツの隣にはシュトリナが座った。
さて、腰を落ち着けたところで、テーブルに目をやり、おや? とミーアは首を傾げた。
テーブルの上……出されたのは紅茶だけで……。
チラリ、とアンヌのほうを見ると、
「もうすぐお夕食になりますので……」
と澄まし顔で答えた。
「私も先に皇帝陛下のところで食べてまいりましたので、遠慮させていただきました」
「そうですの? まぁ、ローレンツ卿がそう言われるなら……」
とつぶやきつつ、ミーアは切な気にテーブルの上を見つめた。
――まぁ、空腹は、お料理を美味しく食べるための必要条件ですし……。仕方ないかしら……。
ちなみに、糖分を取らなければミーアの頭脳労働量が下がることが懸念されるところだが、その辺りも問題はない。これから頭脳労働モードに移行したとしても、あり余るほどの糖分を、今日のミーアはすでに摂取しているためだ。
「ええと、それでは改めてお聞きしますわ。ハンネス大叔父さまのこと」
「そうですな……」
ローレンツは、しばし考え込むようにして黙ってから……。
「クラウジウス家は、ご存知の通り、蛇とかかわりの深い家です。我がイエロームーン家に匹敵するほどの歴史を持ち、皇帝一族や他の家に蛇の息のかかった者たちを送り込む、そのような役割を果たしていました」
「なるほど……。皇帝の一族が蛇の道から外れぬように、と言っておりましたわね」
「当家にいたバルバラも、もともとはクラウジウス家と所縁のある者から蛇の教育を施されたのではないかと思われます。もっとも、蛇は出自や関係が露見するのを極端に嫌うため、直接、彼女から聞いたわけではありませんが……」
「バルバラさんは、オベラート子爵に酷い目に遭わされたと聞きますわ。その後で彼女に接近したとなると、帝国内に潜んでいた蛇のはず……。クラウジウス家の縁者である可能性は高そうですわね」
先ほど食べたジャムの糖分七割ほど消費しつつ、ミーアは言った。
「クラウジウス家では当主が領民に手を出し、子を作っては、その子を養子に引き入れて蛇の教育を施す、といったことも行われていたようで……」
その言葉に、ミーアは思わずパティのほうを窺う。パティは……ただ黙って、ローレンツの言葉を聞いていた。
「貧しい家で育てることで、金持ちや強者に対する恨みを持たせ、そのうえで引き取り、今度は、クラウジウス家で厳しい蛇の教育を施す。理想の蛇を生み出すための仕組みだったというわけです」
「なるほど……。悪質ですわね」
気遣うように、パティの頭を撫でると、パティは大丈夫、と言った様子で頷いてから、
「それで、ハンネス……候は?」
そわそわとした様子で尋ねる。
「彼は、皇妃殿下の弟君であらせられました。そして、皇妃殿下は、ちょうどミーア姫殿下と似ておられて、とてもご聡明な方でした」
「似てる……?」
パティはミーアの顔を見て……一瞬、複雑そうな顔を……顔をっ! なんと、していなかった! むしろ、ちょっぴり嬉しそうに頬を赤らめている!
――ううむ、これは、喜んでくれているのかしら……? 反応に困りますわね。
微妙に居心地が悪かったので、紅茶を一口すするミーアである。
「そんな聡明なる皇妃殿下の弟君ですから、ハンネス殿も、大変に明敏な方でした。彼は、クラウジウス家が姉に害を為すものだと考え、その影響力をできるだけ削ぐよう、ひそかに動いておられました。それに、どれだけ言われても自らは子を残すことはなく、のらりくらりと、上手く身を躱しておいででした。けれど、ついに、我がイエロームーン家に、暗殺の依頼が届くことになりました」
そこまで言ったところで、パティが首を傾げた。
「少し、変……。ハンネスが、そんな風に蛇の言うことを無視できるはず、ない」
パティの言葉に、ミーアはハッと思い出す。
「ああ。そうでしたわね。ええと、ローレンツ卿、ハンネス大叔父さまは、ご病気を患っていたと聞いておりますけれど、その辺りはどうなっておりますの? 蛇にしか作れない薬を服用していたと聞いておりますけれど……。国外に逃がす時、なにか、特別な薬を渡したりとか……」
「いえ、そのようなことは致しておりません。それどころか、ハンネス殿が病気であることさえ、私は知りませんでした」
「ということは、治ったということかしら……?」
「ちなみに、その病名はわかりますか?」
ちらり、とパティのほうを窺うと、パティは小さく頷いて……。
「禁実の病と聞いた……」
その言葉に、ローレンツは、思わずと言った様子で、唸った。
「これは…………珍しい病の名が出ましたな」
「ご存知ですの? ローレンツ卿、その病気のことを……」
「はい。珍しい奇病です。名前は、我々の創生神話に基づきます。封じられた園、そこにある命の木の実と、禁じられた木の実。我らの祖先たる始まりの人は、命の木の実ではなく、禁じられた木の実に手を伸ばし、死ぬ者となった」
ローレンツは、そこで紅茶に口を付け……。
「この出来事にちなんで、その名がつけられました。すなわち、禁実のほうに手を出したがゆえに、命の木の実を口にできなくなった者の病、と……。この病は、幼少期には、体が弱いというだけに見えますが、成長するにつれ、その身を蝕み、やせ衰えさせる。二十の半ば前には亡くなるという恐ろしい病です」
それから、ローレンツは疲れたように首を振った。
「現在のところ、治療法はありません。できるだけ栄養のあるものを食べさせて延命を図るというのが一応の対処法として知られていますが、効果のほどはあまり……」
「なるほど。しかし、ハンネス卿には、その様子はなかった、と。それならば、蛇が嘘を言っていたと……?」
そう尋ねれば、ローレンツは眉間に皺を寄せる。
「それについては、なんとも言えません。騙すにしても、不治の病と言うならば、もっとありふれた病の名を言うのではないでしょうか……」
「それならば、毒はどうでしょうか? お父さま」
シュトリナが横から口を出すも、ローレンツは首を振る。
「私も、その可能性を考えていた。定期的に毒を混ぜて病のように見せる。徐々に衰弱させることは可能だろうし、体を弱らせることもできるかもしれない。地を這うモノの書を読んだハンネス殿は、そこに、自分が飲まされている毒の知識を見つけて……」
「あり得そうですわね。地を這うモノの書には、毒の知識が書かれていたほうが自然な気がしますし……」
ミーアがそう言うと、ローレンツは苦笑して首を振った。
「そこが難しいところなのです、ミーア姫殿下。私は、地を這うモノの書に書かれたことが、すべて悪しき知識だとは思わないのです。毒の知識もあれば、薬の知識もまた、書かれていても不思議ではない、そのような書物なのです」
「あら、そういうものなんですの?」
「そうですね。例えば、薬の知識を使って、人々の信頼を集める医師となれば、どうでしょう……? 毒を使って、誰かを暗殺するより、よほど人々の心を操りやすいのではありませんか?」
それから、ローレンツは小さく唸り声を上げる。
「確かに毒を飲ませていた、ということはあるかもしれないが……引き取ってきた幼い姉弟を脅すのに、そんな面倒なことをするだろうか……? むしろ、病は本当で、地を這うモノの書に、不治の奇病の解決を求めたと考えるべきではないか……?」
ミーアは、そこで違和感を覚える。
――けれど、聞いた話によれば、ハンネス大叔父さまは、おそらく病が治った後まで地を這うモノの書を読み込んでいたはず……。失踪直前まで、熱心に読み込んでいた印象がありましたわ。どこかの時点で病が治ったのに、なぜ、そんなにも熱心に読む必要があったのかが謎ですわ……。
ふとミーアは、傍らに座るパティのほうを見て……思わず、あっと声を上げかけた。
パティもまた、その可能性に気付いたのか……目を見開いていた。
――大叔父さまがなにをしようとしているのか、わかりましたわ。ローレンツ卿は知らないから、思いつかないのでしょうけれど……。
気分を落ち着けるために、紅茶を一口。それから、ミーアは自らの考えを整理するようにパティを見た。
――もしかして、ハンネス大叔父さまは……パティに病気の治し方を教えるつもりなのではないかしら? 地を這うモノの書に載っていると言われている薬の作り方……いいえ、もしかしたら、薬そのものを見つけるつもりなのかも……。そうして、それをパティに渡せば、それは過去の蛇に対する明確な一撃になりますわ。
定期的に薬を飲まなければ死んでしまうという弟を抱えて、なぜ、パティは蛇を裏切ることができたのか……?
それは、早い時期にハンネスが病気から解放されていたためだ。
では、なぜ、病気が治ったのか?
それは、パティが〝未来から持ち帰った蛇の薬″をハンネスに飲ませたためだ。
――ハンネス大叔父さまは過去の自分を救い、姉を蛇から解放するために、今もなお、蛇の薬の作り方を調べている……。であれば、もしもそれが失敗すると……過去のパティが蛇に縛られてしまって……結果として現在が揺らぐことになるやも……。
ゴクリと喉を鳴らすミーアであった。