第五十八話 シャローク、ちょっとだけシュッとする!
さて、帝都ルナティアに戻ったミーアは、早速、ガヌドス行きの態勢を整えていった。
「ルードヴィッヒ……には具体的な指示の必要はなし。むしろ、すると足を引っ張ることになりそうですし……。ディオンさんも剣さえ持ってきてくれれば問題ありませんわ。むしろ、あの方、素手でもなんとかなってしまいそうですし……」
仮に武器を持っていなかったとしても、戦狼の一匹や二匹、撃退してしまいそうだなぁ、などと思うミーアであった。
「問題は、ガヌドスへの潜入方法ですわね。さて、どうしたものか……」
などと、ぶつぶつつぶやきつつ、娘から学校での話を聞きたがる皇帝陛下を華麗にスルーして……。ミーアがやったのは、大商人シャローク・コーンローグとの対談だった。
ルードヴィッヒの要請によって、白月宮殿に呼ばれたシャロークを歓待するため、ミーアはしっかりとお茶菓子を手配していた。
「ペルージャンでの一件以降、仲良くやっておりますし、協力していただけると思いますけれど……」
つぶやきつつ……ミーアはテーブルの上のお菓子を眺めた。
そこには、エメラルダに頼んで揃えてもらった珍しい焼き菓子が並んでいた。
ラスコッティと呼ばれるそれは、二度焼きしたクッキー生地の上に、甘い果実のジャムを乗せて食べる、帝国の伝統的なお菓子だった。ただ、さすがはグリーンムーン家、用意されたジャムは、エメラルダのように美しい葡萄のジャムだった。
つぶつぶの果実がそのままの形で入ったジャムは、ミーアが見たどんなジャムよりも美しく、眺めているだけで、ついついうっとりしてしまうミーアである。
基本的に、宝石などの装飾類には、そこまで興味を示さないミーアであるが、食べ物に関しては別である。なにしろ、美しく美味しいものは、お腹の中に入れてしまえば、誰かに奪われることはないわけで。
目を喜ばせ、舌を喜ばせることに重きを置く合理主義者、ミーアなのである。
「失礼いたします。ミーアさま。シャローク・コーンローグ殿がおいでになりました」
ルードヴィッヒに連れられて、シャロークが現われた。
――あら……?
その姿を一目見た瞬間、ミーアは違和感を覚える。
――シャロークさん……なんだか……。
首を傾げつつもソファーを勧め、そして……。
「今日は、グリーンムーン公爵令嬢にお願いしてとっておきのお茶菓子を用意いたしましたわ。さ、どうぞ、お召し上がりくださいまし」
などと勧めるも、シャロークは一切、それに手を付けようとはしなかった。
「申し訳ありません。ミーア姫殿下。今日は、甘い物の類は、遠慮させていただきたく思います」
「あら……あなたが、お食べにならないのは意外ですわ」
ミーアは驚きに目を見開き……直後、
「もしや、そのお体のことと関係があるのかしら……? よく見るとシャロークさん、少しシュッとされたのでは?」
ラスコッティにジャムをぬりぬり、ぬりぬりしながらのミーアの指摘に、シャロークは嬉しそうに頷いて、
「お気づきいただけましたか……。ふふふ、実は、あれからタチアナ嬢にいろいろ指導していただきましてな」
「なんと? そうなんですのね……。よくよく見れば、見違えるほど健康そうなお顔……。短時間で、そのように劇的に改善する効率の良い方法があるのですわね」
感心した様子でつぶやくミーアに、シャロークはほんのすこぅし、目を逸らし……。
「効率……でございますか。まぁ……その、良いと言えば良いのかもしれませんな。なにしろ、もう二度と、暴飲暴食などしない、と思える程度には、その……厳しいものでございましたゆえ……」
微妙に引きつった顔をするシャローク。ミーア、それを見て察する。それを自分が実践することは決してない、と。
「……そう。で、では、まぁ、いつか機会があったら教わりに行くとしますわ」
そうつぶやいてしまうミーアであったが……彼女は気付いていなかった。
すぐ後ろ、アンヌがとても真面目な顔で、会話を聞いていたということにっ!
まぁ、そんなこんなで、シリアスな話はさておいて……。
「なるほど。我が商会の商人に紛れて、ガヌドス港湾国に……」
一通り、ミーアから事情を聞いたシャロークは、顎をさすった。
ちなみに、かつて弛みに弛んでいた顎の肉も、今は、ちょっぴりシュッとしている。
「ええ。そうですわ。オウラニア姫殿下と仲良くなり、ガヌドス国内の事情を聞きましたの。それを知り、相談されてしまっては、動かないわけにはいきませんわ」
「なるほど。さすがでございますな、ミーアさま。港湾国を手中におさめ、港を取りに行くとは……」
港を取る――それを聞いた瞬間、ミーアの脳裏に、いやぁな想像が浮かぶ。
港を取る、支配する……その象徴としての巨大な黄金……。権威の象徴を、黄金の灯台という形で建てたとみなされ……各国から非難され、中央正教会からは思いっきり叱られて……。
「……ふふふ、港が欲しいだとか、そういった個人的な事情はございませんわ。そもそも、港が使いたいのであれば、ガヌドスにお願いすればいいだけのことではありませんの?」
まず、そのことだけは、はっきりとさせておく。決して、ガヌドスを属領にしたいとか、そう言った事情はありませんよ、と明言しておくのだ。
「なるほど、それもまた理ですな。帝国が力ずくで奪い取ったとあれば、住人の反感は計り知れない。船員の確保は難しくなりましょうし、港の整備や造船などの事業も止まってしまうかもしれない。それよりは友好関係を築き、使わせてもらったほうが得である、と」
「わたくしは、一人で全部できるとは思っておりませんわ。それに、得意なことは人それぞれ。ならば、得意なことを得意な人にやっていただきたいと思っているだけのこと。商売のことは商人に、戦は軍人に、そして、ガヌドス港湾国の統治は、ガヌドス港湾国の王族に」
というか、ぶっちゃけ、なんでもかんでも自らの責任にされてはたまらないと思うミーアである。ミーアがしたいのは、味見と昼寝、ダンスと乗馬。後は、まぁ、ちょっぴり我慢して、ルードヴィッヒらが優しく、やさぁしく要約してくれた書類に「いいね!」することだけなのである。
「けれど、友のすることをすべて認めてしまうは、友にあらず。友の悪癖を指摘し、咎めてこそ、真の友と言えるのではないかしら?」
「ふふふ、高貴なる方の高貴たる所以ということですか。商人であれば、相手の隙を突き、より大きな儲けを求めるが理ですが……」
「さすがは、シャロークさんですけれど、ほどほどに。そうでないと、またわたくしが、咎めることになってしまいますわ」
そう指摘すると、シャロークは、上機嫌に笑った。
「それはたまりませんな。ミーアさまのご機嫌を損なえば、せっかくのミーアネットの働きから外れることになりそうだ」
それから、彼は、そっと目を細めた。まるで輝かしいものを見つめるかのように……。
「歴史に対し、意義のある仕事をするというのは、実に甘美なことですな。多くの人を飢えから救い、世界を変え得る存在……ミーアネットの設立に関わらせていただいたことは、私の生涯の誇りとなりましょう」
もうすでに、引退する気満々と言った様子のシャロークに、ミーアはニヤリ、と意地の悪い笑みを浮かべる。
「ふふふ、それは少し早すぎますわね。老け込むにはまだ早く、生涯を語るにも、まだ早いのではないかしら?」
それから、ミーアは紅茶を一口飲んでから……。
「実は、セントノエルでこんな話が出ておりますの」
そうして、話すのは、例の『魚の養殖』の話だ。
「なんと……魚の養殖を飢餓対策に活用……と?」
「ええ。けれど、それを実現するためには、魚を生きた状態でいろいろな場所に運ばなければならない。そんなことが可能なものかしら……?」
「どう……なのでしょうか? 卵の状態で移動させることはできるのかもしれませんが……私も詳しくはありませんので……」
ううむむ、と唸るシャロークに、ミーアはニッコリ微笑みかける。
「やるべきことは、まだまだ、まだまだ、たくさんございますわ。シャロークさん。甘美な、意義のある仕事がたくさんあるのに、引退するようなことを口にするのは早すぎるのではないかしら?」
そう言ってやると、シャロークはきょとん、と首を傾げ……。
「はて? 私はただの一度も引退を考えているなどと申したことはございませぬが……」
それから、シャロークは、むん、っと立ち上がり……。
「この体とて、長く働くために健康が必要であればこそやっていること……ふふふ、まだまだ、老け込むつもりもありませぬよ」
朗らかな笑みを浮かべる。その笑みには邪気はなく、かつての狡猾な商人の面影すらなく……あるのは、精悍な、夢に向かう若者のような、生気に溢れた色だった。