第五十七話 男たちの酒飲み話
ルードヴィッヒの執務室に、ディオンがやって来た。
それ自体は、別に珍しいことでもない。二人は仕事終わりに、ミーアの“やらかし”……もとい、成してきた偉業を肴に酒を酌み交わすことがあったためだ。
ノックとともに室内に足を踏み入れたディオンは、窓際に立ち、なにかを読みふけっているルードヴィッヒに苦笑いを浮かべた。
「不用心だね。僕が蛇の暗殺者だったら、帝国を傾けることは容易だな」
「ああ。ディオン殿か……。あいにくと、俺が暗殺されたとしても、ミーアさまがいらっしゃれば、どうということはないだろう」
ルードヴィッヒは肩をすくめつつ、静かにディオンのほうに歩いてきた。
「ミーアさまがお戻りになるのだが、先んじて、このような指示が届いた」
手渡された書類に素早く目を通し、ディオンは呆れた様子で笑った。
「ガヌドス港湾国に潜入……? これはまた……」
「少数民族ヴァイサリアンへの隔離政策と奴隷労働の強制。すべての人間の平等を宣言する中央正教会の教義に反することこの上ない。非難するに足る大義名分だ。ミーアさまご自身が行かれるのは、私としては止めたいところだが……」
クイッと眼鏡を押し上げてから、
「王族を咎めるのは、民の上に立つ使命を帯びた統治者の血筋でなければならないからな」
「まぁ、その辺りの大義名分の作り方は、あの姫さんのことだ。完璧にやっているだろうが……しかし、ガヌドスねぇ。なるほど。今度はそちらに手を伸ばす、か……」
ディオンは書類をルードヴィッヒに返しながら言った。
「確かにきな臭い国だし、早めに潰せればそれに越したことはない。それに、上手くすれば、属領にして、我が帝国は海を手に入れることができる……」
と、そこまで言って、窺うように、ディオンはルードヴィッヒに笑みを向ける。
「と、そんなことを考えているわけではないのだろう? 我らの姫さんは……」
「ディオン殿のお察しのとおりだ。ミーアさまは、ガヌドス国王の態度を正すことを是とされているようだな」
「相変わらずだな……。実に面倒だが、実に姫さんらしい」
やれやれ、と首を振るディオンに、ルードヴィッヒは、静かに問いかける。
「なにか気に入らないことがあるのか? ディオン殿」
「いや、なに。ただ、なんとも中途半端なことだと思っただけさ」
言いながら、ディオンは遠慮する様子もなく、ソファに腰を下ろす。
「中途半端……というと?」
ルードヴィッヒは、グラスを二つと酒瓶をもって、対面に座る。
トクトク、と音を立て、注がれる酒の色は深い赤。葡萄酒の作る、深い赤……。グラスを手に取り、その色を楽しむように静かに回してから、ディオンは言った。
「実際に、中途半端だと、君も思うだろう? 大義名分を得て、領土拡張を狙うならばわかる。国としては妥当な戦略だし、帝国皇女が国の発展を考えるのは自然なことだ。それに、サンクランドを真似るわけじゃないが、下手な統治者に治められるより、姫さんの統治下に入ったほうが、民も幸せになれるだろうから、意味だってあるだろうさ」
酒で喉を湿らせるように一口。味を楽しむように、一瞬黙ってから、ディオンは続ける。
「だが、ガヌドス港湾国の、腐敗した王族を正す? 上層部を改心させるだって? それは、わざわざするべきことだろうか? 他国の平和と安定を乱してまで、する必要があることなのかな、それは。余計なことなのではないか? と。まぁ、思うわけだ」
「平和……か」
「まぁ、仮初のかもしれんがね。目下のところ、ガヌドスに騒乱の兆しはないのだろう? だが、ミーア姫殿下が動けば、そうも言っていられなくなる。必ず波風が立ち、場合によっては火の粉を被る者だって出るだろう? いや、ガヌドスの場合には、波しぶきと言うべきか?」
冗談めかして言うディオンに、ルードヴィッヒは苦笑する。
「確かにそれはそうだと思うが、それ以前に……。そうだな。試みに問うが、ディオン殿、平和というのは、戦がないだけの状態のことだろうか?」
「というと……?」
飲みかけたグラスを口に当てたまま、ディオンは静かにルードヴィッヒを見つめる。
「例えば、戦がなく、騒乱もなく、剣で殺すこともなく……。鞭で打って血を流させることすらなくとも……弱き者たちを脅し、苦難と抑圧の中に置いた状態というのは……やはり平和とは呼べないのではないのかな?」
「なるほど。戦がないのは当然として、それだけでは平和とは言えないと?」
「安定とは呼べるのかもしれないが、平和と呼べるかは疑問だ。同様に、実際に刃を交えずとも、突きつけ合った睨み合いも、平和ではなく拮抗と呼ぶべきだろう」
「戦の前段階とも言える状態かな」
「それに、力なき国を軍事力によって圧倒し、脅しつけた状態というのも平和とは呼べないだろう? つまり、戦がないだけの状態も、いくつかに分類できると思うのだ」
そこまで言って、ルードヴィッヒも静かに酒を口にして……。
「戦がないだけの状態を平和と呼べば、その言葉の持つ意味と乖離が生じるように思う。平和と聞けば、なにか良いもののように聞こえるが、実際には、醜悪な現状を維持するために、変化させないための言い訳として使われることが多いような気がする」
「姫さんが目指しているのは、そう言った偽の平和ではない、と……?」
静かに首肯しつつ、ルードヴィッヒは続ける。
「ミーアさまは、蛇とは違う意味で、現状に対する変革者なのだ」
「ほう? 統治する者というのは、体制の維持に腐心するものとばかり思っていたが……」
「それは、もちろんそうなのだろうが、ミーアさまは、そこで満足はされないのだ」
静かにグラスに目を落とし、それを回しながら、ルードヴィッヒはつぶやく。
「それに、おそらくは不公正な平和、偽りの平和は長続きしない」
「それは、どういう意味かな?」
「俺は、水準の信仰心と道徳心、倫理観しか持ち合わせていないから、本質的には正義やら平和を云々しようとは思わないのだ。正義だなんだというのは、少々、面映ゆい」
「ははは、それについては同感だね。それを議論するには、お互いひねくれすぎているだろうさ」
笑いながら、互いのグラスに酒を注ぎ足すディオンに、ルードヴィッヒは言った。
「だが、合理的に考えても、今のガヌドスの状態というのは正されるべきだと思う。ある者たちを踏みつけにして成り立っている社会というのは、酷く歪だ。安定しているように見えて、常に一部の層を抑圧する構造は極めて不安定と言える。そういったものは、長続きしない」
「まぁ、それはそうだろうな。蛇の力を借りるまでもなく、踏みつけにされ、殴りつけられた者は、きっかけさえあれば立ち上がるからね。寄せては返す波のようなものだ。いつそれが大きくなり、こちらに波しぶきが飛んでくる、か。いや、それが波しぶきで済めばいいが……なるほど。確かにガヌドスには平和でいてもらったほうが、都合がいいか」
そうして、ディオンはニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべるのだった。
「それはそうと、どうやってガヌドスに入るおつもりなんだ?」
「ガヌドス港湾国と付き合いのあるシャローク・コーンローグに協力を得たいと思っている」
「ほう。あの大商人か。確か、ペルージャンでは、こちらにちょっかいをかけてきたと聞いていたが……」
「今では、彼もミーアさまの貴重な協力者になっている。あの人脈は大いに役に立ちそうだ。恐らく、ミーアさまが目指すことは、そういうことなのだろうな……」
「なるほどね。敵だからといって排除していたら、彼の人脈は使えなかっただろうし……ふふふ、確かに姫さんらしいやり方なんだろうな」
そうして、二人の男たちは静かに笑い合うのだった。




