第五十話 些細な不幸
「国の、気付いてない問題かー」
自室に戻ってきたオウラニアは、ため息混じりにつぶやく。それから、おもむろに釣りの準備を始める。
「やっぱりー、ミーア師匠、ガヌドスの問題を、きちんと把握してるのねー」
先ほどの、ミーアの真剣な顔を思い出し、オウラニアは思わず考え込んでしまう。
ミーアを師と仰いでから、しばし。彼女は気付くことがあった。
それは、普段のミーアは、相手を油断させるためなのか、ちょっぴりお間抜けなふりをしているということ……。けれど、時折、その雰囲気が変わる時があるということ。
ものすごく真剣に、注意をしてくれる時があるのだ。
今回がまさにそれであった。
――普段の抜けた仮面を脱ぎ捨てての教え……。やっぱり、アノことを言っているんだろうなー。でもー。
「オウラニア姫殿下、また、釣りですか?」
ふと振り返れば、相も変わらず、オウラニアの専属メイドが呆れ顔で立っていた。
隠す様子もない、露骨に馬鹿にした顔……。オウラニアはそれをなにげないふうで見つめてから……。
「ねぇ、あなたー、私のこと馬鹿にしてるでしょー?」
いつもと変わらない間延びした、ちょっぴりのんきな声……。だから、メイドはうすら笑いを浮かべて……。
「いいえ、そんなことは……」
「別にいいけどー、あなた、クビになると家族が路頭に迷うんじゃなかったかしらー?」
「……え?」
メイドの顔色がサッと変わる。が、構わず、オウラニアは続ける。
「確か、妹さんと弟さんがいたわねー。まだ幼いんじゃなかったかしら? 私もお誕生日にお金を送った気がしたけれどー」
そうして、オウラニアはジロリ、とメイドの顔を見た。メイドは、恐怖に目を見開いていた。
「あ、あの、えと、私……」
「人って、馬鹿ねー。少し考えればアブナイってわかるのに、どーして不安定な足場で踊ってみようとか、考えちゃうのかしらー? あなた、今、自分が、沈みそうな小舟の上で、飛んで跳ねて、ダンスしてたってこと気付いてるー?」
たぶん、気付いていなかったのだろうな、と、オウラニアは思う。
自分が仕える姫さまは頭が悪くって、だから、どれだけ馬鹿にしても見過ごされる。それならば、日ごろの鬱憤を晴らすために、少々無礼な態度を取ってもいいのではないか……?
一線を越えるようなことをしなければ、大丈夫なのではないか……?
怒られなければ、注意されなければ……あるいは痛い目を見なければ、人はその危険性に気付けない。
変わることができない。
でも、痛い目を見た時には、すでに手遅れで……。
「おっ、おお、お許しください。オウラニア姫殿下。私は決して、そのような……」
言い訳はあるだろう。
例えば、他のメイドがやっているから、とか。
例えば、先輩メイドにそう聞いていたから、とか。
オウラニアの日々の態度を見て、つい油断してしまったから、とか……。
まことに人という者は度し難く、愚かだ。
――自分がやったことの先に、どんな報いが待っているのか、想像できないのよねー。私も同じだったわー。
だけど、幸いなことに、オウラニアには、注意してくれる人がいた。師と仰げる人と出会うことができた。
だからこそ……。オウラニアは言う。
「そうねー。まぁ、誰も注意する人がいなかったんなら、仕方ないってことはあるのかもしれないしー。許してあげてもいいんだけどー」
んー、っと、唇に人差し指を当てて、オウラニアは続ける。
「ねぇー、私ね、ガヌドスの姫として、相応しく行動したいって思ってるのよー?」
「へ? 姫に……相応しく?」
「そうよー。せっかく姫に生まれたのですものー。問題を解決して、より良い国にしていかないと、姫に生まれた意味がないと言うものよー。例えば、そうねー。あなたがクビになっても、ご家族が路頭に迷わない、そんな国だったら素敵だと思わないかしら?」
「は……はぁ」
オウラニアの変わりようについていけなかったのか、メイドはパチパチと目を瞬かせている。
「そのために、あなたも協力してくれると、嬉しいのだけどー」
そうして、オウラニアはニコリと笑みを浮かべた。メイドは、気圧された様子で、それでも、膝を付き頭を下げた。
「ご無礼を許していただいたばかりか、そのように胸の内をお話しいただいたこと、心から感謝いたします。精一杯の忠勤を持って、姫殿下のご厚情にお応えしたく思います」
「そうー。それは嬉しいわー」
朗らかに笑いつつ、オウラニアはメイドをじっくり観察していた。
見たところ、彼女からは悪意は感じられない。軽んじ、侮蔑するような気配も、今は鳴りを潜めている。
けれど、だからといって、オウラニアは簡単に信用しない。
自身の観察眼がそれほど優れていないことは、先日の件で骨身に沁みていたし、それ以上に、知っていたからだ。
人の心は移ろいゆくものだ、と。
どれほど、忠誠を誓われたところで、ほんの些細なことで、簡単に人の心は変わる。だから到底、信頼するに値しないものである、とオウラニアは思っている。
でも……だけど……。
――ミーア師匠ならば、たぶん、このメイドを罰するようなことはしないでしょうからー。
そう考えて……オウラニアはふと気付く。
人の心は、ごくごく簡単に移ろいゆくもの。昨日は白かったものが今日は黒くなっていることなんか、よくあることで……。でも、それでも、変わってしまえば二度と戻らないものもあるのかもしれない、と。
帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンと出会う前の自分には、きっと戻れないだろう、と、オウラニアは確信していた。
そして、自分はミーアのことを、どんなことがあっても裏切れないだろう、ということも……。
――さすがだわー、ミーア師匠、私も師匠のように、慣れればいいのだけどー。
自らが、なにに憧れているのか……よくわかっていないであろうオウラニアであった。
彼女の観察眼は、彼女が思っている以上に、アテにならないものになってしまったのかもしれなかった。不幸な話である。