第三十九話 オウラニアは楽しいことのためだけに生きる
「いい? オウラニア、あなたは、立派な姫になるのですよ? そうすれば、あの人は……私を愛してくれるでしょう」
それは、オウラニアが幼き日、母から言われ続けた言葉だった。
オウラニアの母は、夫からの愛に飢えた人だった。
夫からの愛を欲し……渇望していた人だった。
それは、普通の夫婦にとっては当たり前のようでいて、王家に嫁いだ者にとっては贅沢な願いだった。
王侯貴族にとって、結婚は家と家との結びつき。自らの家にとって、国にとって、それがどれだけ有利になることか……合理的なメリット、政略こそが重要であって、そこに感情は必要なかった。
けれど、オウラニアの母は、夫からの愛を求めた。
政略結婚で結び合わされた縁なれど夫は夫。妻として愛されたいという強い想いが、彼女の胸を焦がしていた。
彼女は高貴なる身分の女性として家のためにその身を捧げ、義務を果たし、そのうえで夫からの愛を求めたのだ。
だから、それは当然の権利だったろうが……、彼女が愛を得ることは叶わなかった。
彼女の夫、ガヌドス国王は、どこまでも妻への無関心を貫いた。
別に、嫌ったのではない。憎んだのでもない。
ただ……関心を示さなかった。
ゆえに、彼女は考えた。
良き後継ぎを生み、育て上げれば、きっと夫は私を愛するに違いない……と。
オウラニアは物心ついてから、しばらくの間、そんな母の期待を背負って、日々を過ごしていた。
辛くはなかった。むしろ、母から期待されることは誇らしかったし、父に褒められるよう立派に振る舞うことも、やりがいがあった。
けれど、そんな日々は唐突に終わりを迎える。
母が、いなくなった日に。
……と言っても、別に死んではいない。
オウラニアの母は悲劇の女性ではなかった。
オウラニアが十歳になった日、母は、父から離縁された。
そのうえで、他国の貴族の男を紹介された。
そして、彼女の新たな夫となった人は適度に優秀で、温厚で……なにより、情に深い男だった。
かくて、オウラニアの母は、新たな夫からの愛を得て幸せになった。
遠回りはしたものの、彼女は幸福を得て、今では二児の母として、家族と共に幸せに暮らしている。
オウラニアによって得ようと思っていた愛を、惜しみなく与えてくれる相手と、無事に出会えたのだ。
それは、完璧なハッピーエンドで……。
ただ一人……取り残されたのはオウラニアのみ。彼女に残されたものは、母の願いの残滓のみで……。
幼き日の彼女は、それをギュッと握りしめたまま、父に問うた。
「お父さま、私は立派な王女になれるように頑張ります。私は、どうすればいいですか?」
どこかの国から有能な王族を婿として迎えればいいだろうか?
それとも、どこかの国の有力者と婚儀を結び、国に殉じようか?
父が、母の代わりに新たな王妃を迎え入れれば……そして、男児が生まれれば、そういう未来だってあり得るかもしれないが、それはそれで構わない。
それも王家に生まれた者の務めだろう、と。
オウラニアは自らの役割を父に問うた。
生き方を……存在意義を、父に問うた。
そんな彼女に父は言った。
「オウラニア、お前は……なにもしなくていい」
「……へ?」
不意を突かれ、オウラニアは、パチパチと瞳を瞬かせた。
「なにもしなくて……いい?」
「そうだ。なにもする必要はない」
曖昧に頷くと、父は、オウラニアから視線を外した。まるで彼女から興味を失ったかのように……。
否、オウラニアは、気付いていた。
この、ひときわ観察眼に優れた少女は……、とっくの昔から気付いていた。
父がそれ以前からずっと、ずっと……! 娘になんの興味も抱いていないということ。
それだけではない。この世界に対しても、彼は、なんの興味も抱いていないのだ。
かつての妻にも、オウラニアにも、愛を注ぐことはない。さりとて、放棄もしない。王宮から追い出すようなこともしない。
ただただ無関心で、なにもしない。
ただ、黙って成り行きを眺めるのみ……。
それこそが、父、ガヌドス国王、ネストリ・ペルラ・ガヌドスであるということ……。オウラニアは理解していた。
知っていたのに、見ないふりをしていたのだ。
いつか、父が自分を見てくれる日が来るのではないか、と。そうすれば、母はきっと喜んでくれるに違いない、と……。
それだけを導に生きてきた彼女は……その瞬間、生きる意味を失った。
「王族の義務など果たすことはない。なにができようができまいが、関係ない。このガヌドスの次の統治者はお前になるだろうが、だからといって、なにかをする必要はない」
オウラニアの耳に父の言葉が届く。
「好き勝手に生きるがいい」
酷く冷淡で、乾いた言葉が……。
――それはー、私が必要ないっていう意味ですかー?
心の中に浮かんだ問いを口にすることなく……。
オウラニアは、迷子になった。
今まで彼女の指針としていたものは幻のように消え……どう生きればいいのか、わからなくなった。
周りの者たちも、彼女に生きる目的を与えることはなかった。
彼女は、自由になんでもできたし、なにをせずとも注意されるようなこともなかった。
いてもいなくても同じものとして、無関心の中を、ただ無為に過ごした。
そうして……、いつしか、オウラニアは思うようになっていた。
なにもしなくていいのなら……なにも求められていないのなら、楽しいことだけのために生きていこう、と。
なにも期待されず、自分が生きることになんの意味もないのであれば、好き勝手に生きてなにが悪い……と。
だけど……楽しいことのためだけに自由に生きる日々は、あまり楽しいものではなかった。
――なーんで、そんな昔のこと思い出してるのかしらー?
湖に飛び込んだオウラニアは、沈んでいく男の子に向かって、懸命に泳いでいく。
――っていうか、どうして、私、こんなことをー?
そうは思うものの、手を止めることはない。
――そもそもヴァイサリアンなのに泳げないとか、どういうことかしらー? 海賊の子なのに泳げないとか、ほんと、どういうことなのかしらー?
手足をバタつかせながら、湖に沈んでいく男の子。
体の力さえ抜けば、難なく浮くというのに、そんな簡単なことすら知らぬ……馬鹿な、ヴァイサリアンの子ども……。海に生きる民のくせに、釣りの仕方一つ知らない仕方のない子……。
恐ろしい海賊を助ける必要などない。
そんなもの、放っておけばいいのに……気付けば、体は勝手に動いていて……。
――さっき、笑ってありがとうって言われたのが嬉しかったからとか……。まさか、そんなことでー? 私、ちょっとチョロすぎないかしらー?
頭の中にモヤモヤ浮かぶ疑問の答えも出せないまま、オウラニアはキリルに懸命に、手を伸ばすのだった。