第三十八話 無欲の勝利か? 初心者の幸運か?
「では、早速、勝負を……」
「ここじゃあ、ヌシは釣れませんよー、ミーア姫殿下」
オウラニアは、湖を眺めながら言った。
「いい釣り場だとは思いますけどー、ヌシを探すならばもっと、人が寄り付かない場所を選ばないとー」
その言に、サンテリは深々と頷いた。
「なるほど。良い目をお持ちですな。オウラニア姫殿下」
それから、サンテリは思案げな顔で腕組みしてから、
「実は、ヌシが目撃された釣り場は、誤って落ちると少し危険な場所なので、今回の釣り場には入れなかったのですが……まぁ、大丈夫でしょう」
ニヤリ、と笑みを浮かべて言った。
「ヌシを釣るというミーア姫殿下の心意気にお応えしなければなりませぬゆえな……」
そうして、サンテリが指示したのは、セントノエル島を挟んだ反対側だった。島の地形がやや入り組んでおり、あまり船の出入りのない場所である。
「ここは水の色が、少し深いですわね」
「ええ。この辺りは少々深さがありまして。しかも人の出入りが少ないために、大きめの魚が育っているのです」
「なるほど。いかにもといった雰囲気ですわ」
ミーアは、深みを増した水の色に、うむむっと唸る。
――できれば、ヌシとか、ヌシっぽい魚とかいないほうが嬉しかったのですけど、仕方ありませんわ。ここは、とりあえず正攻法。わたくしがなんとかヌシを釣り上げてやりますわ!
意気揚々と釣り糸を垂らすこと、しばし……。
ひょーい、ひょーい、っと、ミーアの隣で、次々に大物を釣り上げていくオウラニア。
負けじとミーアも、ひょーい、ひょーい、っと、釣り上げていく――小魚を!
初心者の幸運の期間が終わったのか、はたまた、この釣り場の、大きめの魚の頭脳が、帝国の叡智を上回るものであったのか……。
ともかく、ミーアは、ひょいひょい小魚を釣り上げていくも、狙っている大物は一切かからなかった。
――ああ、まぁ、そうですわよね……。そうそう都合のいい話なんか、ありませんわよね。
ミーアは、はぁっとため息を吐いた。
こういう時のために、ヌシ釣りを提案したのだから、それは良いのだが……。
――うーむ、けれど、諦めて途中で勝負を投げ出すのも感じが悪いですわ。ここは、釣っているふりだけはしておくのがいいですわね。
っと、一応、釣り竿を下ろしたままにしておくも……、すでにやる気は、しなしなと萎んでいた。
――しかし……ちっちゃいのはやたら引っかかるんですわよね。小さくて可愛らしいお魚さんたちを釣り上げ過ぎるのも気が引けますし。いちいち、釣り上げて針にウミミズをつけるのも、やや、面倒……。ここはあえて、釣り針を垂らしたまま、波の数でも数えて過ごすのがよろしいかしら。ヌシがオウラニアさんの釣り針に引っかからないようにお祈りしつつ……。
などと、小さい魚たちの身を案じたり、ヌシが引っかからないようにお祈りしたり、と、パッと見、魚界の愛の女神めいたことを考える、ものぐさ海月姫ミーアである。
竿を動かさぬよう固定し、ジッと波に目を落とし、そのまま波の数をカウントし始める。
魚を釣り上げようという欲も、勝負に逸る気持ちも、もはやミーアの中にはない。そこにいるのは、ただ、波の数を数えるだけの、無の境地に達した一匹の海月であった。
……実のところ、ミーアに本当の『初心者の幸運』が舞い降り始めたのは、まさに、この瞬間だった!
釣り竿が軽く、ピクピクッと動くのを感じるも、感触から小魚だと判断。そのまま、素知らぬ顔で、ミーアは竿を垂らし続け……じっと、じぃぃっと波の数にのみ集中する。
それに気が付いたサンテリが、様子を見に来て「なるほど……」っと、小さくつぶやきをこぼした。刹那っ! ミーアの竿が、ぐぐぐいいっ! と引っ張られた。
「ふひゃっ! なっ、なな、なんですの? こ、この手応えは……」
「おお、やりましたな! ミーア姫殿下。これは、なかなかの大物ですぞ」
興奮した様子で声を上げたのは、様子を見ていたサンテリだった。
「まさか、釣れた小魚をそのままエサにしようとするとは、思いませんでしたぞ!」
そう、それは奇跡……。
ミーアの針にかかった哀れな小魚を、より大きな魚が丸呑みにしたという珍しい状況!
それはミーアの、海月のように存在感を消す能力と、初心者の幸運が起こした奇跡。あるいは、ミーアの、魚たちに対する〝慈悲深き祈り〝を聞いた湖の女神が与えてくれた恩寵か?
いずれにせよ……。
――こ、こんなこと、たぶん二度は起こりませんわ! となれば、逃がすわけにはいきませんわ!
両脚を踏ん張り、腕に力を込めて竿を引く。が、魚の力は思いのほか強く……逆に引きずり込まれそうになる。
「ミーアさま、失礼いたします。お気をつけて!」
ミーアの腰の辺りをがっし、とアンヌが支える。こうして、ミーアが落ちる心配はなし! あとは、うっかり竿を離したりしない限りは大丈夫だ!
周囲の者たちがミーアの周りに集まってきた。湖を覗き込むようにして身をかがめていたキリルが、声を上げた。
「あっ! あそこ、大きい!」
その小さな指が向かう先、湖面から一瞬跳ね上がった魚は、太くて、長くて……なにより、口がとっても大きかった。あれならば、小魚を丸呑みにしてしまったとしても納得だ。
「おお! あれは、まさしく女帝の魚。この湖のヌシと呼んでも差し支えのない威容」
サンテリのちょっぴり興奮した声を聞きつつ、ミーアは満身の力を込めて竿を引く。
「ぐ、これは、千載一遇のチャンス。なんとしても、物にしなければ……! いよーっこいしょー!」
っと、いささか姫っぽくないというか……若干、アレな声を上げ、ミーアは思いっきり竿を引いた。いささか乱暴な引き方であったが、手応えは変わることなかった。
どうやら、あの女帝の魚、一度、食べ物に食いつけば放さない、不屈の食いしん坊のようだった!
ぐん、ぐぐんっと、魚の姿が湖に浮かび上がり……。バシャン! と音を立てて、宙を舞う女帝の魚!
船に向かい飛び上がった、その大きな口から……次の瞬間、スポーンっと糸が外れた。
どうやら、ギリギリのところで危機を察知する小心者さも兼ね備えていたらしい女帝の魚である。
「あ! ああ……!」
ミーアの落胆するような声。
「まかせて、ミーアさま」
その時だった。キリルが、身を乗り出すようにして、魚に手を伸ばしていた。ヌシ(仮)を空中でキャッチするべく、体を大きく湖のほうに乗り出して。
「キリル、危ない!」
ヤナの注意する声が響いた、瞬間! ひときわ強い風が吹き、それに押されるようにして……。
「あっ……」
キリルの身体が湖のほうに押されて、落ちていく!
「キリルっ!」
咄嗟にヤナが手を伸ばすも、それが届くことなく、小さな体は湖に落ちていき、落ちていき……。
どんぼっと音を立てて、湖に呑み込まれた。
「まっ、まずいですわ。引き上げないと」
慌ててミーアが立ち上がりかけたところで、隣から誰かが飛び込むのが見えた。
スラリとした長身を宙に躍らせて、綺麗な飛び込みを披露した少女、それは……。
「オウラニアさん!?」
ガヌドス港湾国の姫殿下だった。




