第三十二話 それ、ムーンボウかなにかなんじゃ……
――あらぁ? 今のって……。
突如として現れた光景に、オウラニアは、かっちーんと固まっていた。
スッと……頭が冷えていく。これから、ノエリージュ湖に漕ぎ出して釣りを楽しもう! などというお気楽な興奮は、一瞬で霧散していた。
――まさか、まさかねー?
心の中で否定しつつも、頭に浮かぶのは、先ほどのシーン。風で帽子を飛ばされたヤナの、露わになった額……。そこに見えた、目の形をしたタトゥーだった。
――もしかして、あの子はー、か、海賊?
「あら? どうかしましたの? オウラニアさん?」
不意に、声をかけられて、オウラニアはビクンっと飛び上がる。見れば、ミーアがニッコリ笑みを浮かべて、話しかけていた。
「い、いいええ、なんでもありませんー」
「そうなんですの? ですけど、なにやら、顔色が……」
「平気ですよー。ただ、暑かっただけですからー」
「まぁ、それはいけませんわね。帽子を被って……なにか、飲み物がないか、聞いてきましょうか?」
っと、ミーアが動き出そうとしたところで、とてとて、っと小さな男の子が近づいてきた。
オウラニアは……そこで気が付いた。男の子が、まるで、自らの額を隠すかのように、バンダナを巻いているということに……。
――もっ、もしかして、この子もー?
よくよく見ると、バンダナを巻いたその姿は、オウラニアが聞いていた海賊の風貌そのもので……。無邪気そうに見えるその顔からも、なにやら得体の知れない恐ろしさを感じ取ってしまって……。
オウラニアは思わず、顔を引きつらせる。
男の子は、ミーアに陶器の器を手渡した。中には何かの液体が入っている。
「あら、キリル、これは……?」
「ジュースだって、パティお姉ちゃんが……。はい、どうぞ!」
そうして、バンダナの子どもは、オウラニアにも器を差し出してきた。
「あ、ああ、ええ、ありがと、う?」
ぎこちない笑みを浮かべつつ、オウラニアは、少年の顔を凝視した。
――このバンダナ、やっぱり、海賊みたいだわー。こ、こわぁー! こわぁ!
ガヌドス港湾国において、海賊は恐怖の対象だった。
海からやってくると言う亡霊海賊を始め、海賊の幽霊船や、人々を海に引きずり込む、無数の海賊のかぎ爪の話などなど……その怪談のほとんどを海賊が占めている。
中でも、第三の目を持つという、こわぁい海賊団の話は、幼き日のオウラニアに大変な心の傷を植え付けていた。それは、幽霊としての怖さではなく、現実的な恐ろしさを持った話だった。
捕まれば、外国に売り飛ばされて酷い目に遭うだとか。場合によっては、両腕を縛られたうえ、ワニがうようよいるような場所に落とされたりだとか。樽に入れられて海に沈められて、魚釣りの餌にされたり……ちょっぴりリアルな怖い、こわぁいお話なのだ。
そして……基本的に、世間知らずに育てられたオウラニアは、そのお話を、全体的に信じていたりもして……。
――こわぁ……。
だからこそ、彼女は海賊が怖いし、第三の目のタトゥーを持つ者たちには、たとえ子どもであっても近づきたくはないのだ。
「ありがとう。キリル。うふふ、これ、とっても美味しいですわ」
そんな海賊の子どもの頭を、ミーアは笑顔で撫でていた。
高貴なる身分の姫が、平民の子どもの頭を撫でるだけでも、あまりないことなのに、怖い、こわぁい! 海賊の子どもの頭を撫でている……。それが、オウラニアには信じられなくって……。
――こっ、ここ、こわぁ! ミーアさまって、もしかして、海賊団のボスなんじゃあ……?
ミーアの背後に、恐ろしい巨大ザメの姿を幻視するオウラニアである……!
もし仮にミーアの後ろにナニカの影が見えたなら、おそらくムーンボウかなにかだと思うのだが……少なくとも、オウラニアには、ミーアがおそろしーい存在に見えたのだ。
「ミーア姫殿下、間もなく釣り場に到着いたします」
その時だった。
タイミングよく、サンテリが声をかけてきた。
それで、オウラニアも気が付いた。
船は港を出て、セントノエル島から反対岸に向かって真っすぐ進んでいったらしい。ちょうど、馬車を乗せて船が行き来している航路と同じようなコースだった。
湖面に目を落とせば、水の色がわずかに濃い。深さがそれなりにありそうだった。
「この辺りは、湖底にかつての橋の残骸が沈んでいるとかで。そこを住処にしている魚が釣れるのです」
「おおー。これは、大物がいそうかもー」
無理やりに、先ほどの恐怖心を呑み込んで、オウラニアは釣りに集中することにする。
大丈夫、今日はともかく釣りだけして、後はミーアや子どもたちと距離を置けばいいのだ。っと、気持ちを切り替えようとした、まさにその時だった。
「あ、オウラニアさん。実はお願いがございますの」
ニッコリ、またしても満面の笑みを浮かべて近づいてくるミーア……。
「へ? えーと、なんですかー? ミーア姫殿下」
恐る恐る問い返したオウラニアに、ミーアは事もなげに言った。
「子どもたちに、釣りを教えてあげてほしいのですけど……」
「うぇ……?」
思わずヘンテコな声を出して、オウラニアは固まる。
「なっ、どうして、私がー?」
「実は、生徒会でも釣りをしたことがある人が少なくって……。サンテリさんや、この船の船長さんはもちろんできるのですけど、手が足りませんの。それで、オウラニアさんにも少しだけお手伝い願えないかな、って思っているのですけど……」
ふと見れば、ミーアの近くには、先ほどの帽子の少女がいた。前髪から、今もちょぴっとだけ、タトゥーが見え隠れしている。隠しきれていないウッカリさん……などと思いかけて、オウラニアは、間違いに気づく。
――うっかりじゃない。わざとだわぁ! 私を脅してるのねー。
しかも、その隣には、バンダナを巻いた男の子の姿もある。さらにさらに、よくよく見れば、その男の子の隣に立つ無表情の少女も、なんだか怖そうだ。ミーアに似た顔立ちだが、こちらの心をジッと探るように見つめてくるのが、実に恐ろしい。
「あ、あの、私はー」
「ああ、心配しなくっても大丈夫ですわ。なにも、すべて任せようなんて思っておりませんわ。わたくしもお手伝いしますし……」
と、そこで、ミーアは悪戯っぽい笑みを浮かべて、
「ここはぜひ、今日を楽しい一日にするために、オウラニア姫殿下の素晴らしい腕前をご披露いただきたいですわ」
実に見え透いたお世辞を言うのだった。
――うう、こ、ここが船の上じゃなかったら、逃げられるのにー。
オウラニアは、泣く泣く頷くのだった。