第二十五話 水面に映る月のごとき……
「安全な釣り場となりますと、岩場は避けたほうがよろしいでしょうね」
「なるほど、確かに、あそこは滑りやすいですしね」
「とすると、釣り場として考えられるのは……」
サンテリ・バンドラーを筆頭に、釣りマニアの職員たちが生徒会室に集う。やおら賑やかになった室内には、熱い……あつぅい! 熱気が渦を巻いた。
「釣りのスポットは良いとして、餌を針につけるのは、貴族のご令嬢には厳しいのでは?」
「そうですな。釣り上げた魚を外すのもなかなか難しいでしょうし。同志諸君を何人か手配して、各所に配する必要があるのではないかと……」
などと……。自らの思い付きが細部まで具体化されていくのを見て、ミーアは満足げに頷いた。
――ふむ、やはりこの辺りのことは専門家に任せるのが早いみたいですわね。釣りに詳しい方がいて良かったですわ。ここは、任せてしまっても大丈夫かしら?
ミーアは、そっとラフィーナに視線を送る。っと、ラフィーナが頷くのを見て、ミーアは部屋を後にした。
本来の目的、すなわち、オウラニア姫を懐柔するために動き出したのだ。
――釣り大会を開いたはいいけれど、オウラニアさんが参加しない、とか、ゴネ始めたら大変ですし。きちんと外堀を埋めておく必要がありますわ。
そうして、オウラニアの部屋に向かおうとしたところで……ミーアは廊下を歩いてくる二人の子どもたちの姿を見つけた。それは、ヤナとパティだった。
「あっ、ミーアさま」
先にヤナのほうが気付いて、小走りに近づいてきた。
「こんにちは、ミーアさま」
ミーアの前で、ちょこん、と頭を下げるヤナに、ミーアは優しい笑みを浮かべた。
「ああ。ヤナ。うふふ、すっかり元気になったみたいですわね」
そうして頭を撫でてやると、ヤナは恥ずかしそうにはにかんだ。
「あの、この前はありがとうございました」
「いいえ。いつものあなたに戻ってなによりですわ。それで、あれ以降、オウラニアさんになにか言われたりとか、そういうことはあったかしら?」
オウラニアを訪ねる前に、なにか弱味が握れないか……っと、情報収集に勤しむミーアである。が、ヤナは小さく首を振り、それから、前髪を軽くいじった。
「オウラニア姫殿下には、見られないように前髪で隠してます。キリルも、バンダナを巻かせました」
「ああ。なるほど、不必要なトラブルを避けるための配慮ですわね……」
ガヌドス港湾国において、差別されるヴァイサリアン。その証たる額の刺青だが、隠そうと思えば、隠せないこともない。ないのだが……。
「でも……いいのかしら? それで、あなたは……」
「別に、気にしてません。あたしも、この刺青、あんまり好きじゃないから」
そうは言うものの、ヤナの言葉は微妙に歯切れが悪かった。
――ふむ、きっと、あの刺青にもいろいろと思い入れがあるのでしょうね。ご両親の思い出とか……。
だが……、とミーアは同時に思う。もしも、ヤナがそれでいいというのなら、こちらから何かを言う必要はないのかもしれない。確かに無用のトラブルを避けられるならば、それでもいいのかもしれないし……。
「ミーアさま?」
ふと見れば、ヤナが不思議そうな顔で見つめていた。
「ああ、いえ、なんでもありませんわ。ところで、あなたは港湾国の出身でしたわね? と言うことは、もしかして、釣りもお上手なのかしら?」
貴族の子女たちは、根本的に釣りなどしたことがない者たちがほとんどだ。
ミーア自身も、知識として持っている程度で、実際にやったことはない。餌を自分でつけられるか、あまり自信はないわけで……。
それゆえ、全校生徒でやるとなれば、釣りに詳しい者を随所に配する必要があるだろう。場合によってはグループを作り、その中に一人教官をつけるような形になるかもしれない。
――まぁ、詳しいことは、釣りマニアたちが詰めて考えてくれているでしょうけれど……。
もしも、ヤナが釣りに詳しいのであれば、ユリウスとヤナに特別初等部を教導してもらえるかも、と期待したミーアであったが……。ヤナは申し訳なさそうに首を振った。
「いえ……あたしは、その……釣りとかしたことなくって……」
「あら、そうなんですのね……。それは意外ですわ」
騎馬王国の民が、全員、熟練の騎手であるように、ガヌドスの国民は全員が釣りマニアだと思い込んでいたミーアであったが、そうでもないらしい。
ミーアの反応を見て、ヤナは、途端に表情を曇らせる。
「申し訳ありません。ミーアさま。海洋民族のヴァイサリアンなのに、あたし、そういうの全然詳しくなくって……。それに、全然、泳げなくって……」
しょんぼりと肩を落とすヤナに、ミーアは静かに首を振る。
「あら、謝る必要などどこにもございませんわ」
これでは、まるで自分がいじめたみたいなので、ミーアはきっちり言っておくことにする。パティの手前、危険の芽は手っ取り早く摘んでおかねば、教育上よろしくない。
「今のは、ただ聞いただけのこと。なにができるとか、できないとか、そんなことであなたの評価はかわりませんわ。それに、あなたはまだ子ども。これから、いろいろなことを身に着けていける立場なのですから……」
それから、ふと思いついたように、ミーアは笑った。
「ふふふ、そうですわね。それでは、今度、わたくしが泳ぎ方を教えてあげますわ」
「え? ミーアお姉さま、泳げるの?」
目をまん丸くするパティに、ミーアはちょっぴり得意げな顔で、
「ふふふ、造作もないことですわ。水面に映る月のごとく美しき泳ぎ、などと言われたものですわ。ねぇ、アンヌ」
っと、自らの後ろを振り向けば、
「はい。ミーアさまの泳ぎは、とても素晴らしいものでした」
忠臣、アンヌは大きく頷く。アンヌの頭の中で、若干の記憶の改竄が行われているような気がしないではないが……。人は、自分に都合よく記憶を書き換えてしまうものなのだ。
ともあれ、水面に浮かぶ海月のごとき泳ぎの体得者、ミーアは微笑みながら言った。
「まぁ、でも、もう泳ぐには寒い時期になっておりますし、今回は水泳ではなく、釣りですわ。特別初等部のみなさんも、楽しんでもらえればよろしいのですけど……」