第二十三話 無知の姫、オウラニアは笑う
「はぁ……」
セントノエル学園女子寮の一室に、満足げなため息が響いた。
部屋の住人は、ごく最近、セントノエルに入学してきた少女――他ならぬガヌドス港湾国の王女、オウラニア・ペルラ・ガヌドスだった。
ベッドの上に横になり、ニコニコと満足そうな笑みを浮かべる。
「あー、今日もたくさん釣れた。うふふ、ああ、楽しかった。あれをお料理できないのは、残念だけど、でも、楽しかったわー」
右手を見つめて、それから、うっとりと瞳を閉じて……。
「ノエリージュ湖……。ふふふ、素敵な釣り場だわぁ。海釣りもいいけど湖もなかなかねー。来て良かったかも」
頬に手を当てて、オウラニアは首を傾げた。
「でも、お勉強はやっぱり面倒。んー、うちのお城なら、口うるさいことは言われないのに、本当、面倒だわー」
っと、その時だった。部屋にノックの音が響いた。
「失礼いたします。オウラニア姫殿下。ご報告がございます」
ドアを開け、入ってきた従者に、オウラニアは、ぽーっとぼんやりとした視線を向ける。
「あらぁ? なにかしら?」
「実は、先ほど、他のメイドから聞いたのですが、近々、生徒会主催の釣り大会が開催されるとのことです。基本的に生徒は全員参加とか……」
「まぁまぁ、釣り大会! それは、とっても面白そうだわー。うふふ、ミーア姫殿下もなかなか、面白そうなことを思いつくものねー」
能天気に笑うオウラニアに、メイドは、わずかばかり軽蔑した目を向けた。
「ですが、生徒会主導のイベントとなれば……、国王陛下のご命令に逆らうことになりませんか?」
途端にオウラニアは眉間にしわを寄せる。出発前、父に言われた言葉を思い出したのだ。
「あー、うーん。確かに、お父さまからは、ミーア姫と距離を置くように、って言われてるわねー。でもー」
パンッと手を叩いて、オウラニアは言った。
「生徒が全員参加なら、出ないわけにはいかないんじゃないかしらー? さすがに、そこまで露骨にお断りしたら、嫌われてしまうかもしれないしー」
すでに、かなり露骨にお断りしてるし、なんなら、結構、ミーアにムカつかれているわけなのだが……。オウラニアは、そんなの、まったく気づいていない様子で言った。
「それにー、ミーア姫殿下はともかくとして、下手なことをすると、エメラルダさまにも嫌われてしまうでしょう? それはまずいのではないかしらー? グリーンムーン公との関係は、ガヌドスにとってとても大切なんでしょう?」
「それはそうかもしれませんが……」
なにか言いたげな顔をするメイドを無視して、オウラニアは続ける。
「それにねぇ、お父さまは、たぶんなーんにも言わないわー。平気よ、平気、大丈夫」
歌うように楽しげに、なんの心配もないかのように朗らかに言って、それから、オウラニアはガバッとベッドの上で半身を起こす。
「そうでしょうか?」
「そうよー。だって、お父さまは……」
っと、そこで言葉を切って、オウラニアは……、小さく首を振って。
「お父さまは……可愛い娘の私のことが大好きだから。ちょっとぐらいのわがままなら、許してもらえるわよー。大丈夫、大丈夫」
おっとり、フワフワ、なにも考えていないように。
おっとり、フワフワ、オウラニアは笑う。
それは、姫の笑顔。
辛いことも怖いことも、悲しいことも、なにも、彼女の目には映らない。
彼女は姫だから……。ただ、温和な笑みを浮かべて、メイドに目を向ける。
その視線を受けて、メイドは深々と頭を下げる。
「もちろん、その通りです。オウラニア姫殿下は、御父君のご寵愛を一身に受ける方です。大抵のわがままならば、お許しいただけると思うのですが、しかし、今回は……」
「だからぁ、平気だってば―。別にあなたが怒られるわけでもなし。それにー、あのお父さまが怒るところなんか、想像できないでしょー?」
それよりなにより、ノエリージュ湖での魚釣り大会。そんな面白そうなものに参加しないなどという選択肢は彼女にはない。
一人でのんびり釣るのも楽しいが、その技術を他人と競い合わせることもまた一興。
深窓の姫君は、娯楽に飢えていた。
メイドは、小さく首を振ってから、小さくため息。
「まぁ、オウラニア姫殿下がそうおっしゃるなら……」
「そうそう。そうよ? 難しいことを考えてないで、もっと楽しいことを考えましょうよー。あなただって、釣り、好きでしょう?」
「いえ、私はそれほどでも……」
「あらー、そうなの? まぁ、別にいいけど。準備だけはしっかりとしておいてねー」
「はい、釣り竿と魚籠を用意しておきます」
そうして、一礼して、部屋を出ていくメイドを見ながら……。オウラニアは、小さく首を傾げる。
「ううん、やっぱり軽く見られてるのかしらー。まぁ、どうでもいいけど」
オウラニア・ペルラ・ガヌドス……。
彼女は無知の姫君だった。
民のことなど知らず、国と国同士の関係にも、さしたる興味はなく……。姫として必要な教養も、あまり身についてはいない。
されど、無知であることと、洞察の鋭さは矛盾しない。
彼女は、自分がメイドからどう見られているのか、しっかりと感じ取っているし、その視線の意味もきちんと理解しているのだ。
そのうえで……。
「そんなことより、釣りだわ。うふふ、とーっても、楽しみ。うふふふ」
メイドの軽蔑も、姫としての振る舞いも、どうでもいいこと。
自分が楽しいことのためだけに生きる……。
オウラニアは、そんな少女だった。