第二十一話 夜の図書室へ
実は、聖女ラフィーナは……暇ではない。
最近はすっかりお友だちと遊んでる(遊びたがってる)イメージが定着しつつある彼女であるが、公人としての職務は少なくはないのだ。ガワだけ聖女ではない。きちんと仕事もしているのだ。
生徒会での会合が終わった後、彼女は、モニカを中心とした従者たちからの報告を聞き、セントノエル島内に異常がないことを確認。それから夕食を取った後、身を清めてから聖堂へと向かう。
そうして、聖女として、今日一日、学園が守られたことへの感謝と、生徒たち一人ひとりへの祝福を祈るのだ。
蝋燭の仄かな明かりに照らし出されるのは、膝を付き、手を組む、清らかな乙女の姿だ。
瞳を閉じ、微かに動く唇からは、祈りの言葉が囁きとなって響く。
「……明日もミーアさんと楽しく過ごせますように。あと、できれば虫の研究は避けられれば嬉しいのですけど、すべてはあなたの御心のままにお進めください。ただ……できれば、虫だけは何とか避けられれば……できるだけ気持ち悪くないのであれば、なんとか……」
…………若干、個人的な祈りを最後に口にして、ラフィーナは、ふぅっと息を吐いた。
これは、以前、馬龍から受けた助言の影響だった。
人として――喜び、楽しみ、悲しみ、怒り……。感情を持つ人として、人々を教え導く聖女となること……。そのために、必要なことは何か……?
それは、隠すことなく、素直に、人としての葛藤を神の前にさらけ出すこと。
そして時には、それを友の前でも隠さないこと……。
孤高の聖女として、ただ一人、感情を胸に秘めるのではなく……きちんと話し、相談すること……。
それこそが、彼女が悩み、辿り着いた答えだった。
だから、ラフィーナは、公の聖女として祈りをささげた後、自分個人の感情のことも、ちょっぴり祈るようにしたのだ。若干、個人的に過ぎるというか、俗物っぽいかな? と思うようなことも、隠さず祈るようにしたのだ。
「よし……」
そうして、すべての公務を終え、ラフィーナは聖堂を後にする。
入口のところで控えていたモニカと合流して、女子寮の部屋へと向かって歩き出そうとしたところで……。
「あら……?」
廊下の向こうから歩いてくる少女を見つける。
それは、つい先ほど、生徒会の会議で顔を合わせたばかりの人物……。
「クロエさん、こんなところで、なにを?」
「あっ、ラフィーナさま!」
声をかけられて、びくっと体を震わせたクロエだったが、相手の正体に気付いたのか、すぐに、ふぅっと安堵の息を吐く。そして、
「あの、これから、図書室を開けることって、できないでしょうか?」
思わぬことを言ってきた。
「図書室……? もう、閉館時間は過ぎているけど、なにか急ぎの用事かしら?」
基本的に、クロエは常識をよくわきまえた人物だと、ラフィーナは見ている。その彼女が、わざわざ、夜の、閉館時間が過ぎた後の図書室に入りたいと言う。
これは、なにか理由があるのかな……? などと考えていると……。
「はい。実は、先ほどミーアさまとお風呂でお話ししたんですけど……」
思わぬ言葉に、ラフィーナは……瞳を見開いた。
「え……? ミーアさんと、お風呂会? 私、誘われてない……」
「え……?」
クロエは、きょとりん、っと小首を傾げる。それで、ラフィーナ、自らの失言に気付き……慌てる!
「あ、ええと、そうではなくって……」
っと、あわわ、っと口を開けるラフィーナに、クロエは、パンッと手を叩いて、
「あ、申し訳ありません。ラフィーナさまも、やっぱり入浴剤の効果、確かめたかったですよね」
「え? あ、ええ。そうね。うん、その通りだわ」
生真面目な、実に、しかつめらしい顔で頷き……。
「生徒が使う大浴場のお湯に興味を抱くのは、当然のことです」
聖女の顔で、涼やかな笑みを浮かべて……すぐに、
「それで、図書館には、なんの御用なのかしら?」
すぐに、話を変えにいく。
「あ、そうでした。わけは、後で話しますから、とりあえず、開けてください。ミーアさまのお役に立てるかもしれないことなんです」
そう言われては、ラフィーナとしても了承しないわけにはいかない。
ミーアの為すことは、ほとんどが民のためになることである。そのミーアの役に立つことというのであれば、反対すべき理由はどこにもないのだ。
すっとモニカのほうに視線を向ければ、モニカは一礼し、その場を去る。
「では、図書室のほうに向かいましょうか」
図書室に着くと、すでに、鍵は開いていた。入口のところでは、モニカが涼しい顔でたたずんでいる。さすがは敏腕メイドである。
そうして、図書室の中に入ったところで、クロエはゆっくりと語りだした。
「もしかしたら……ミーアさまは、共同研究の内容について、腹案があるのかもしれません」
唐突な言葉に、ラフィーナは思わず瞳を瞬かせる。
「お風呂で、ミーアさま、言っておられました。海水でのみ生きられる魚のこと、逆に普通の水でも生きられる魚のこと。その成長の速さのことも……。だから、飢饉への、新しい研究の内容……。もしかしたら、なんですけど……魚のことをお考えなのではないでしょうか?」
「魚……?」
思わぬ題材にラフィーナは顎に手を当てる。
確かに、魚であれば、作物の不作とは関係なく獲れるだろう。効率的に大量の魚を獲る方法ができれば、飢饉の対策にはなるかもしれない。
加えて、今までに食べていなかったような魚も研究し、食材にできれば、食料の全体量も増える。なかなか、悪くない着眼点に思えた。
それよりなにより、素晴らしいのは……。
――虫や内臓の生肉料理より、食べやすそう。さすがだわ、ミーアさん。
これである……。
もしも、ミーアが、この大きい虫、てかてかして、とってもジューシーで……などと言い出したら、どうしようかと思っていたラフィーナである。
笑顔でソレを勧められた時、果たして、自分はどうなってしまうのか……、なぁんて、真剣に悩んでいたラフィーナであったから、これは、朗報と言えた。
「そのための、知識を集めておこうと思って……居ても立ってもいられなかったんです。これが読みたくって……」
ある本棚の前で立ち止まり、クロエが取り出した本……それはっ!
『秘境の珍味レシピⅦ ~怪魚! 人面魚を美味しく食べる!~』
だった!
「クロエさん……ちょっと……」
ちょっぴり引きつった笑みを浮かべるラフィーナであった。