第八十話 わがままシチュエーション
駐屯地の兵たちに、慰労の笑みを浮かべつつもミーアは考え続けていた。
――兵を引く……。
自身のギロチンへと直結するような戦いが今まさに始まろうとしている。
その危機が、炎のように燃え上がりつつあるこの状況……、ミーアの脳は悲鳴を上げんばかりに回転速度を上げていた。
ぼんやりと宙に視線をさまよわせつつも、兵たちと目が合えば、にっこり愛想よく微笑みを浮かべるミーア。
兵たちは、思わず息をのんだ。
もともと、アンヌが手塩にかけて手入れしているすべすべお肌と、馬シャン効果でサラサラ美しい髪を完備している今のミーアは、ミーア史上最強の可愛らしさを持っている。
加えて、その服装は大貴族が着ないような、どちらかといえば庶民的な、乗馬用の服である。
そんなお姫様が、どこか焦点の外れたような、ぼんやりとした目をしている……、その浮世離れしたTHE姫殿下、という雰囲気に、ディオンの精兵たちはコロッとやられた。
「おお、なんとお美しい……、あれがミーア姫殿下か」
「俺たちのような下っ端の兵のために慰労に来ていただけるとは……なんという」
そんなことをうっとりつぶやいたりなんかしている。なんともチョロい精兵たちであった。
感動に打ち震える兵たちをしり目に、ミーアは考え事を続けていた。
ミーアには切り札が存在している。
そう、わがままである。
大抵のことは、ミーアのわがままで通ってしまう。軍令部である黒月省の命令であれど、帝室のわがままで覆せる。
これは数多の悲劇を生んだ致命的な欠陥ではあるが、今回の場合は大きな武器と言える。
けれど、それは決して万能ではないのだ。
問題は、わがままを言う条件を整えられるかどうか、ということである。
――なかなかに難しいですわ。
なにかほしい物をねだるとかならばともかく、兵をわがままで引かせるという状況が、ミーアにはいまいちうまく想像できなかった。
例えばの話、ミーアが何の前触れもなく「兵を引け」と言い出したとする。
どうなるだろうか? ディオン隊長は真に受けて、兵を引いてくれるだろうか?
答えは、恐らく否だろう。
きっと副隊長あたりが、
「はっはっは、将軍ごっこですか。姫殿下、なかなか勇ましいですな」
などと笑い飛ばして終わりである。
支離滅裂な子どもの戯れ言だと思われてはいけないのだ。
わがままを言ってもおかしくはない状況を、ミーアは作り出す必要があるのだ。
――なにか上手い方法があればよろしいんですけど……、あら?
そこで、ミーアは不意に気がついた。なんだか、あたりの景色が微妙に変わっているような?
見上げるばかりに大きな木、木、木。
そこは、アンヌの妹、エリスが書く物語に出てくるような、深い森の中だった。
ミーアたちが立つ獣道も細く曲がりくねり、先が全く見通せない。
「あの……ここは?」
「ん? 先ほど言いましたよね。森に入るって」
「…………へ?」
ミーアは、思わず、ぽかん、と口を開けた。
「ですから、森の中、最前線ですよ」
「さっ、ささ、最前線っ!?」
「そうです、と言っても、まだ戦は始まってませんからね。なにもしなければ、いきなり攻撃されるなんてこともないと思いますけどね」
と、付け加えたが、ミーアはまったく聞いていなかった。
――わっ、わたくしが考え事をしている隙に、なんてとこに連れ込んでくれますのっ!?
視察といっても、ミーアは別に森が見たかったわけではない。というか、そもそも駐屯地にだって来たいとも思っていなかった。
ミーアは、あくまでも紛争を止めるために来ただけなのだ。それなのにっ!
思わず文句を言おうとしたミーアに、ディオンが低い声で囁いた。
「ああ、先に言っておきますよ、姫殿下、どうぞ、不用意に森のものに手を触れませんように」
「え?」
「彼らにとってこの森の木は、神から与えられた大切な財産。それを粗末に扱われたら、矢が飛んできても文句は言えないでしょう?」
――文句言いますわ! いきなり矢が飛んでくるとか、怖くてしょうがありませんわ!
ミーアはこわごわと周りの木々に目をやった。
心なしか、暗がりに矢を構えた男たちの姿が見えた気がして、小心者の心臓がすくみ上る。
「もっ、もう結構ですわ。早く町に帰り……ふぎゃっ!」
どでーんっと、盛大な音を立てて、ミーアがすっころんだ。
ぐねぐねと盛り上がった根っこに足を取られてしまったのだ。
「姫殿下、大丈夫ですかっ!?」
「お怪我はっ!?」
近衛たちが心配そうな声を上げる。
対照的に、ディオンはあきれ顔でため息を吐いた。
「気を付けてくださいよ、姫殿下。帝都じゃないんですから」
それでも、ミーアに手を差し伸べてくる。ミーアはその手を取りつつ、
「こっ、こんなところに根っこが出てるのが悪いんですわ。この木が……あっ」
瞬間……、ミーアは閃いた。
「そう、そうですわ……。この木が悪いんですわ!」
にんまり、悪い笑みを浮かべて、木を見上げるミーアであった。