エピローグ ある些細な悲劇
「はて? ヤナのお母さんの、歌、ですの?」
首を傾げるミーアに、ヤナは小さく頷いた。それから、そっと息を吸って、歌い始める。
「西の夜空に月、三つ。
東の夜明けに、日が六つ。
古き約束より出し、
我ら、いずれ帰らん。かの地へと。
いずれ帰らん、霧の海へと」
「いずれ帰らん……。なにやら、意味深ですわね。それに、最後の部分の歌は、なんだか、ちょっと音が変な感じがしますわね。上に行ったり、下に行ったり……」
パティのほうに目を向けると、彼女も小さく頷いて、
「その部分は、この紙には書いてなかった。ただ、繰り返しのメロディーになっていました」
そう言って、パティは自らの手元の紙に目を落とした。
「あはは……。それは、もしかしたら、あたしの母さんの覚え違いかもしれません。あたしも、なんか変な歌だなって、思ってましたから」
それから、ヤナは遠くを見つめるように瞳を細める。
「もしかしたら、途中まで歌って、気持ちよくなって……だから、最後のところだけ音が外れちゃったんじゃないかな……。最後のところだけすごく変だから逆に覚えてたけど……。母さん、歌、下手だったから。でも、下手なのに、毎日歌ってくれたから、すっかり覚えちゃった……」
そうして、ヤナは笑った。とても寂しそうな顔で……。
もしかすると幼かったキリルより、母親との思い出が多いから……だから、思い出して辛くなってしまったのかもしれない。
ミーアが、ヤナの頭を撫でてあげようと、近づこうとしたところで、パティがゆっくりとヤナのそばに寄り添い、その背中をさすった。それはちょうど昨日、パティがしてもらっていたような……そんな優しい仕草だった。
そして、子どもたちを労わるように、アンヌも、ベルやシュトリナも見守っている。
――ふむ……、あちらはなんだか大丈夫そうですわね。とすると、わたくしが今すべきことは、頭脳労働ですわね!
……ミーアが、また無茶なことを言い出した。
「ええと、状況を整理するべきですわね。まず……ハンネス大叔父さまは、地を這うモノの書を熱心に探っていた。そして、そんな彼の部屋から、ヤナたちのお母さまが歌っていた子守歌が出てきた。これは、何かしらの関係性があると考えるべきなのかしら?」
ミーアは、パティのほうに目を向けて、
「ちなみに、パティ、あなたはヴァイサリアンとなにか所縁があったりしますの? 例えば、出身がガヌドス港湾国のほうだったとか……」
クラウジウス家に引き取られる前のパティの暮らしを、そう言えば聞いていなかった、と思うミーアだったが……。パティは静かに首を振り。
「生まれも育ちも、帝国です。この曲も聞いたことはありません」
「ふむ……とすると、この音楽が残されていたことが、とても意味深な感じがしますわ」
「そうですね。紙に穴を開けているのも、気になります」
くいっと眼鏡の位置を直しつつ、ルードヴィッヒが言った。
「先ほども言った通り、ただ、音楽の記録をしておきたいだけであるなら、紙に書いておけばいい。ヨルゴス式音階で記録するために、わざわざ穴を開ける必要はどこにもありません。自分のためのメモであるならば……。にもかかわらず、このように穴を開けたということは、この楽器を強く印象付けるためではないでしょうか」
「なるほど。つまり、ええと……この紙は、誰かに向けて、この音楽のことを伝えようとした……ハンネス大叔父さまのメッセージだったかもしれない、ということですわね」
それで、合ってるかなぁ? っと、横目で窺えば、ルードヴィッヒは満足げに頷いていた。
どうやら、合っていたらしい!
「ふむ……。しかし、ヨルゴス式音階も、考えてみると気にはなりますわね。そのヨルゴス神父という方が自分で考えた可能性ももちろんございますけれど……ハンネス大叔父さまと知り合いである可能性も……」
「あ、そうだ。ミーアさま、あたしたちを保護して、セントノエルに送ってくれた神父さまの名前が……確か、ヨルゴスって言っていました」
それを聞いて、ミーアは瞳を見開いた。
「あら……それは、意外な偶然ですわね。ということは……」
「同名ということも考えられます。ミーアさま、ヴェールガのラフィーナさまに確認を取ってみるのがよろしいのではないでしょうか?」
ルードヴィッヒの言に頷きつつも、ミーアは腕組みする。
「ラフィーナさまと……それに、ローレンツ卿にも連絡が必要かしら? ハンネス大叔父さまを国外に逃がしたのは、他ならぬイエロームーン家なのでしょうし。どこの国に脱出させたのか、確認が必要ですわね」
シュトリナのほうに目を向ける。と、シュトリナは静かに頷き、
「すぐに、お父さまに確認をとります」
「ええ。お願いしますわね。ただ……」
と、そこで言葉を切って、ミーアは窓の外に目を向ける。
「いずれにせよ、ガヌドス港湾国には、すぐにでも行くことになりそうですわね。エメラルダさんにも連絡して、段取りをつけていただきませんと……ああ、これから忙しくなりそうですわ」
そうつぶやく、ミーアであったが……その予想はある意味で裏切られる。
ミーアたち一行がガヌドス港湾国に行くのは、少し先のことになるのだった。
さて……。帝国からガヌドス港湾国に移り、のんびり陰謀工作に勤しもうとしていた火燻狼が、その悲報を受けとるのは、季節が秋から冬に変わりかけた頃のことになった。
大型台風ミーアが、ガヌドス港湾国に上陸しつつあるという悲報……それは、時期的に言えば、彼がようやく人間関係を構築しつつあり、これから、すこぅしずつ悪意の種蒔きをしようかな、と……、楽しくなってきたぞぅ! という……まさにその時だったのだ。
それは世界中のどこにでもあるような、ちょっとした些細な悲劇。それをもたらした大型台風ミーアがかの地に何をもたらすのか、知る者は一人もいなかった。
……あっ、今日で第六部終わります。
来週から第七部にします。