第百八話 慧馬、大失敗をやらかす!
朗らかに、高らかに、慧馬の声が夜空に響き……。響き?
「…………あれ?」
一瞬の沈黙。慧馬は不思議そうに首を傾げる。
「変だな……。こうすれば、いいと確かに……」
っと、その時だった。
「やれやれ、そう勝手に出歩かれて、呼ばれても困るんだけどね……」
ぬぅっと……闇の中から現れる、一人の男。
戦場において鍛え上げられた体躯、その腰に二本の剣を佩いて……。涼やかな笑みを浮かべて立つ、その人物は……。
「お、おお……本当に来たな。ディオン・アライア。イエロームーンの娘の言ったとおりだ……」
慧馬は、感心した様子で言った。
そうなのだ……。慧馬は、ミーアの助言に素直に従い、シュトリナに助言を求めに行ったのだ。どうすれば、ディオン・アライアは怖くなくなるか……? と。
その問いに、シュトリナは、うーん、と唸った後、
「武器を持って立ち向かおうとしないのが一番。それさえ守っていれば、殺されたりはしないし、逆に襲われている時にフラッと助けにきてくれたりすると思うけど……。あの人、神出鬼没だし……」
正直、半信半疑だった慧馬なのだが……シュトリナの目論見通り、ディオンは現れた。
「さすがは、ディオン・アライアの専門家。ミーア姫が推薦するだけのことはある。今度から、我が師と敬うことにしよう!」
まるで、凶暴な狼を手なずけた時のような快感に、ちょっぴり驚きつつも、いい気分になっている慧馬に、ディオンはチラリ、と視線を向ける。
「ははは。なんだか、便利に使われているみたいで、ちょっと不快なんだけど……」
チャキッと剣を鳴らすと、慧馬はびっくーんと跳びあがった。
それから、すすすっとディオンから距離を置きつつ……。
「いや、まぁ、その……わっ、我は別にディオン・アライアを顎で使ったわけではないぞ? ただ、我が友ミーア姫に敵対する輩を見つけたので、ここは、帝国の叡智の剣たる貴殿の出番かな、と思って呼んだだけで、決して……」
と、早口に言う慧馬。やれやれ、と首を振り、ディオンは言った。
「まぁ、別にいいけどね。君は姫さんのお友だちだし、今回は大目に見るよ。しかし……」
と、そこで、ディオンは改めて、燻狼に視線を向ける。
「またしても人質とはね。何番煎じかな?」
剣を抜き、肩に背負う。
「さすがに飽きてきた感は否めないのだけど……」
「有効な手は何度でも使う。ごく当たり前のことをしているつもりなんですがね……」
と言いつつ、燻狼は一歩足を引いた。できれば逃げたい、と全身で表すその傍らで、もう一人の男が剣を引き抜いた。
『武器を持って立ち向かおうとしないのが一番』
なぁんてシュトリナの言葉を、慧馬が思い出した次の瞬間。
「そうだったね。ああ、特に前回は上手いことやられたんだった……!」
直後、ディオンの姿が消える!
目を見開く慧馬の、その視界の中。空を覆っていた雲が切れ、月光が差し込んできた。
淡い光の中、現れたのは、燻狼に向かい、剣を振り上げるディオンの姿で……。
その、化け物じみたスピードに、慧馬は思わず……。
「……こ、こわぁ……でぃ、ディオン・アライア、こわぁっ!」
ドン引きした様子でつぶやいた。
一方、ドン引きする余裕すらなかったのは、燻狼だった。
「ひっ、ひぃいいいいっ!」
突如、目の前に出現したディオン。剣を振り上げたその姿に、彼は思わず、その場にへたり込む。腰を抜かしたように……あるいは……そう見えるように。
直後、振り下ろされる刃、けれど、彼を守るように割り込んでくる者がいた。
「おお、いい太刀筋だが、素直に喰らってやるほど甘くはないぞ」
燻狼の相棒、バンダナの男は嬉々とした様子で、ディオンの斬撃を受け止める。
その手に持つのは、独特のフォルムをした曲刀。
それは、ガヌドス港湾国の近郊の海賊が好んで使うものだった。
「はっはー!」
ディオン・アライアの剛撃を受け止めて、得意げに笑う男、だったが……次の瞬間、その体が、真横に吹き飛ばされた。
くるりと体を反転させたディオンが、蹴りを放ったのだ。
――こいつ、お行儀の良い騎士って感じの動きじゃないねぇ。戦い慣れてるよ。
などと冷静に分析しつつ、燻狼は腰を抜かした演技を忘れない。その甲斐あってか、どうやら、ディオンの興味は、相方の暗殺者のほうに向かってくれたらしい。
「ほう、狼使いを葬ったというのは、君か」
剣を肩に担いで、ディオンは、のんびりとバンダナの男に歩み寄った。
「腕は悪くないみたいだが、まだ青いな。アベル王子のほうがよほど覚悟が決まってるよ」
「この俺が、生ぬるい王子の剣に劣ると……?」
「よかったよ。もしそう聞こえていなかったのなら、剣だけでなく、理解力まで王子殿下に劣るところだったよ」
「殺すっ!」
激高する蛇の刺客は、再び、ディオンに挑みかかっていき……。
――って、まともに戦ったらまずいんですけどねぇ。ああ、しかし、失敗しましたねぇ。ディオン・アライアがここまでの男とは。
燻狼は、己の判断ミスを悔いていた。
いかに、同じ町に帝国の叡智が訪れていようと、下手にちょっかいを出してはいけなかったのだ。それは……彼のやり方ではなかったのだ。
――上手くいかないことが多すぎて、焦りがあったということか。慣れないことをした報いですねぇ。
あわあわ、と口を震わせつつ、彼は、ディオンたちから離れるようにして後ずさる。後ずさりつつ……視線を巡らせる。その先にいたのは、火慧馬だった。
そう、確認すべきは……慧馬の視線から外れることができたかどうか、である。
火燻狼は、とても器用な男だった。彼は自らを「取るに足らぬ存在」であるかのように見せる術を心得ていた。
まぁ、実際問題として、戦闘力的に言えば、燻狼は取るに足りない存在には違いないので、演じることに、あまり苦労はないわけで。
その結果、彼はディオンの注意から外れ……慧馬の視線からすらも逃げ切ることに成功する。
彼らの注意の外、影の中に潜んだところで、彼は改めて状況を確認する。
残された時間は少ない。あの男と戦っているからこそ、ディオンの注意は逸れているだけで……。
――あいつが倒されるのは時間の問題。そうしたら、次は俺の番ということになりますからねぇ。
ならば、どうするか……?
この絶対的な危機にあって、彼が活路を見出したのは、慧馬の存在だった。
火慧馬は、かつては族長の戦士たちを率いて、略奪隊を指揮していた。
本人も、兄仕込みの剣を使う、なかなかの手練れである。その腕前は、恐らく燻狼をしのぐ。
ゆえにそこに油断がある……っと、燻狼は踏んだのだ。
そして……その予想は当たる。慧馬の視線は、今、ディオンに向いていた。
「よし! やれ、ディオン・アライア! 我が兄の仇を取るのだっ!」
しかも、調子に乗っていた!
――さて、それじゃ、ま、やりますかね。
燻狼は、小さくつぶやくと、自らの剣の柄をひねる。柄から出てきた水と、自らの手のひらの中の粉とを混ぜ合わせ……。
「それっ!」
生まれたのは、強烈な光っ!
「なっ!?」
っと、驚きの声を上げ、固まる慧馬。
きゃんっと弱々しい声を上げる狼を尻目に、燻狼は流れるような動きで、慧馬の後ろに回り込む。
その体に腕を回し、鼻と口を布で塞いだ。
「むっぅっ! ふ、ふんろ……ぅ……んぅ……」
バタバタと、一瞬、体を暴れさせかける慧馬だったが、すぐに、その体から力が抜けた。がくん、と膝を折りかける慧馬を抱きすくめつつ、一方で、混乱から回復しかけた戦狼には、
「近づいたら、お前の飼い主を殺しますよ?」
っと、念のために声をかけて足止めをする。さすがに訓練された戦狼なだけはあって、燻狼の言葉を聞いて、そこで動きを止めていた。
――さて、ここまでは計画通り。後は……。
ぐったりとした慧馬を抱えたまま、燻狼は声を上げる。
「ちょっといいですかね?」
その声に反応して、ディオンが大きくバンダナの男との距離を開ける。
一方で、バンダナの男は、追撃をかけようとはしなかった。その余裕は、どうやらなさそうだった。
――斬り殺されていないだけマシ、と言ったところでしょうね。彼も手練れではあるのでしょうが、このまま、戦えばどうなるかは明らか。やれやれ……。
ため息を吐きつつ、燻狼はディオンに目を向けた。
「さて、状況の確認、といきましょうか」
「まさか、その子を人質に剣を捨てろ、とでも脅してみるつもりかな?」
そう言いつつ、静かに刃を向けてくるディオンに、けれど、燻狼は肩をすくめた。
「いえいえ、そんな要求突き付けた瞬間、あなた、俺たちを殺しに来るでしょう」
人質が、かの帝国の叡智ならばいざ知らず。慧馬程度では意味をなさないことは、燻狼もよくわかっていた。
慧馬のために殺されてやるという選択肢は、ディオンの中にはないだろう。だからこそ、取引は『慧馬の命』と『ディオンの命』では成立しない。そうではなく……。
「慧馬には、すでに毒を投与しました。最終的には死ぬ類の毒ですが……今すぐにイエロームーンのお嬢さんに見せれば、解毒することも可能……かもしれませんねぇ」
燻狼は容易に妥協する。
それは『慧馬の命』と『自分たちが逃げる時間』との取引だった。
――帝国の叡智は人質に弱い。その剣たるこの男も、少なからず影響を受けているはず。であれば……。
「ほう。すぐには死なないが、最終的に死に至る類の毒……。しかも、イエロームーンのお嬢さまに見せれば、簡単に解毒できる……っと。あるものかな……? そんなに都合のいい毒が……」
まるで馬鹿にするように、口元に笑みを浮かべるディオン。対して、燻狼は……。
「どうでしょうねぇ。どう思われます?」
できるだけ意味深に見える笑みを浮かべておく。
――まぁ、そんな都合のいい毒とか、ないんですけどね!
実際のところ、半ばヤケクソであった。
現在の、彼の手持ちの毒は、投与するとすぐ死んでしまう類の、毒性が高いやつだけだった。
そもそもが根無し草。イエロームーン家のように、屋敷内に多種多様な毒を取り揃えておく、などということは、当然できないわけで……。
――かといって、すぐに死なれたら、奴はそのまま殺しに来るでしょうし……。
慧馬を抱え上げた瞬間、彼女が死んでることに気付いたら、容赦なく斬りかかってくるだろう。であれば、慧馬は、きちんと生きていてもらわなければならないわけで……。
ということで、慧馬に与えたのは、ただの眠り薬だ。
以前、シュトリナを眠らせたのと同じものである。
「ちなみに、解毒はできるでしょうが、やるなら早くしたほうがいいと思いますよ。毒は毒。後遺症が残ったりするかもしれませんからねぇ」
無論、はったりである。後遺症的に言えば、ちょっぴり二日酔いっぽくなるかなぁ? ぐらいのものであるのだが……。
蛇で鍛えられた燻狼が、それを顔に出すことはない。
そうして、彼はさっさと慧馬から離れる。慧馬を抱え上げるついでに、斬りかかられたら、ひとたまりもないからだ。
『慧馬を助けるためには急いでこの場を離れる必要がある』という脅しを生かすためには、『燻狼たちを斬り殺すには、それなりに時間を消費する』という状況を維持する必要があるのだ。
「なるほど。十中八九、嘘なのだろうが、嘘と断定できるほどの確証はない。それに、君が嘘だ、と口にすれば、それはそれで疑わしい」
ディオンは何の未練もなくバンダナの男から離れると、慧馬のそばに行き、その体を抱え上げる。
「ははは、どうやら我ながら油断していたようだ。どうも、自分の命以外がかかってる駆け引きは、あまり得意じゃないみたいだよ」
小さく舌打ちしつつ、ディオンは何の未練もなく、さっさとその場を後にした。
その姿が闇に消えるのを確認してから、燻狼は、ふぅーっと、息を吐いてへたり込む。
「っと、一安心している暇なんてありませんでしたね。さっさとここを離れなければ……」
やれやれ、と首を振りつつ燻狼は、地面に倒れ込んでいるバンダナの男のほうへと歩み寄った。
「大丈夫ですか?」
「なんだあれは……。化け物かなにかか?」
「さんざん言ったと思いますけどねぇ。ヤバいって」
呆れたようにため息を吐き、燻狼は続ける。
「まぁ……手を出したらヤバいってわかってもらえただけでもよかったですよ。それで命があるんなら、上出来だ。とりあえず、急いでここを離れないとね」
「離れるのはいいが、これからどこへ行くんだ?」
立ち上がったバンダナの男を見て、燻狼は笑みを浮かべた。
「当分は、帝国の叡智とはお近づきになりたくないんでね……。帝国を出て、あなたの故郷に行くってのはどうですかね?」
「ガヌドス港湾国に……か」
「ええ。そこで、のんびりゆっくり、毒をまいていくとしましょう。そのほうが、俺のやり方にあってるみたいなんでね……」
……ちなみに、慧馬は、ディオンに運ばれている途中、クラウジウス邸で目を覚ました。
目を覚まし……自分が、怖い、こわぁいディオン・アライアに抱えられていることに気付き……また、自らのミスで、燻狼らを取り逃がしたことを悟り……。
この後、ディオンに死ぬほど怒られるんじゃないかなぁ、とこわぁい想像をした結果……。
「ううん……」
再び、意識を手放すのだった。
※情報整理
○ベルとパティの秘密を知っている人たち
ミーア、ベル、パティ、ルードヴィッヒ、ガルヴ、アンヌ、シュトリナ
○ベルの秘密のみを知っている人たち
アベル、シオン、キースウッド、ラフィーナ、ティオーナ、リオラ、ラーニャ、リンシャ、モニカ、(おおむね生徒会の面々)、ディオン
※なお、未来のミーアの周りの人たちはベルの秘密は知っているようだが、パティに関しては記憶しておらず。そもそも、彼らの時にもタイムスリップしてきたのかどうかすら不明。