第百七話 闇夜の邂逅
古来より、闇は悪と関連付けられてきた。
白日の下に晒す、という言葉のあるとおり、日の光は容赦なく、すべての悪事を照らし出すもの。隠したいこと、後ろ暗いことのある者たちは、必然、日の光のない夜を愛し、月明りすらない新月を恋い慕う。
そのような、薄い闇のベールに覆われた町。領都クラウバルトを二人の男が歩いていた。
「やれやれ、相も変わらず、帝国の叡智は動きが速い」
ゆったりとした歩みで裏道を行くのは蛇導師、火燻狼だった。
「ここに来るのは、もう少し後かと思ってましたがねぇ……」
まぁ、それでもあまり変わりはなかったか、と自嘲の笑みを浮かべる燻狼である。
――準備の時間がなければ、動きが取れないってのに……。まったく、困ったもんです。
燻狼の考える蛇の本質……それは、崖から落ちそうになっている人間の背中を、そっと押してやることだった。
あるいは、社会の中に溶け込んで、崩れそうになっている場所を見つけ、そこに、ちょっとだけ力を加えること。存在に気付かれることなく、関係性を破壊して、世界を少しだけ悪いほうへと導くこと。
小さな悪意、一日一悪。それこそが肝要。
その悪が積み重なれば、歴史の流れは少しずつ、混沌のほうへと流れていく。
「だというのに、あの帝国の叡智ときたら、崖に落ちそうになってる人間を片っ端から助けるばかりか、崖のほうに向かわないように立ち回ってくる。まったく厄介なことです……」
燻狼の基本戦術は、徹底して、敵に気取られないことだ。そのために、直接的な攻撃は、得意ではないのだ。仕込みにはそれなりに時間がかかるし、顔が割れているとやりづらいことこの上ないわけで……。
「帝国の叡智の先兵だけでも排除できていれば、意味があったんじゃないのか?」
隣で不満そうな顔をするのは、額にバンダナを巻いた男、蛇の刺客の男だ。
燻狼とは違い、直接的な暴力によって悪を成す、その力を持ち合わせた男だが……。燻狼の見たところ、頭のほうは、あまりよくはないようだった。
――話してて楽しくはあるんですけどねぇ……。
などと言う燻狼の心に気付いた様子もなく、バンダナの男は続ける。
「この町で、派手に動き回ってるって噂だっただろう? 連中を殺すだけでも……」
「あれは、罠でしょう。情報の流れが露骨過ぎましたよ」
ゲルタにも言われていたこと……。帝国の叡智が、今は亡きクラウジウス候のこと、その家を調べているということ……。
それを聞いていた燻狼は、気まぐれに、確認のために立ち寄ったのだが……。来て早々に、クラウジウス家のことを調べて回る男たちの情報に接することができてしまった。
「あの帝国の叡智の手の者が、こんなにもわかりやすく、情報収集なんかするわけがない。明らかに罠ですよ。下手に食いついたら、どんな目に遭うことやら……」
「罠ごと食い破ってやればいいと思うが……しかし、なるほど……。それもそうか。権力を持った者にとって、末端の者の命など金貨よりも軽いのだろうな。わざわざ、敵の計算に乗ってやる必要もなし、か」
以前から思っていたことだが、このヴァイサリアンの末裔は、どうやら、権力者というものがひどく嫌いらしい。さて、過去にどんなことがあったのやら……などと思っていると。
「だが、それならば、直接、帝国の叡智を狙えばよかろう」
なかなかに、無茶なことを言い出した。
「クラウジウス邸を急襲すると? なるほど、勇敢なアイデアですねぇ。騎士団の一つでも動かせれば考えてもいいのかもしれませんけれど」
「なにも警戒が厳しい館に突入することはない。火でも放てばよいのだ。出てきたところを襲えば、隙も作れよう」
なるほど、ただ、何も考えず突っ込むよりはマシかもしれないが……。
「ミーア・ルーナ・ティアムーンを知恵で出し抜こうなんて、無茶なんじゃないですかねぇ」
想定外の攻撃であれば、隙も作れるだろう。けれど、すべて予想済であったなら、それも難しい。
「帝国の叡智を侮るべきではない。あの者は、我らの巫女姫さまの知恵を上回り、ティアムーン帝国、レムノ王国、サンクランド王国の危機を防ぎ、騎馬王国の問題を解決してのけた……。初代皇帝の数百年越しの計画さえ、今や、風前の灯だ……」
口にして、改めて思う……。いや、すごいな! と……。
とてもではないが、人間業とは思えない。
「あのような、叡智の持ち主と真っ向から知恵比べなど、愚かにもほどがある」
「俺に言わせれば、お前のやっていることのほうが、よほど滑稽に思えるが……」
眉をひそめて、彼は言った。
「そのように、袋を壁にこすりつけることに、いったい何の意味があるというんだ?」
「わかりませんか? 臭いですよ」
「ははは、なるほど。旅の途中だ。水浴びもできてないから、臭うだろうよ。その臭いを建物に擦り付けて、嫌がらせをすることで、世界に悪意をばらまこうって寸法かな?」
「それはまた、地味に嫌な悪意の発露で……。実に心惹かれますがね」
燻狼はニヤリと口元を上げ……。
「今、相手にしてるのは、人じゃないんですよ、生憎と。もっと鼻の良い……おや?」
その時だった。二人の前に、立ち塞がる影が見えた。それは……。
「見つけたぞ。やはりいたか。燻狼」
火族の族長の妹、火慧馬と、その相棒の羽透の姿だった。
「おやおや、これはこれは慧馬ではありませんか……」
目当ての人物が現れたことに、内心でほくそ笑みつつ、燻狼は、ことさらに親しげな口調で話しかけた。
「このようなところでお会いできるとは……ははぁ、なるほど。兄の馬駆同様に、帝国の叡智の犬になりましたか……」
煽る……煽る! それに対し、慧馬は、素直にムッとした顔で……!
「失敬な。犬などではないぞ、狼だ! それも、しっかりと飼いならされた優秀な狼だぞ! 間違えるな。なぁ、羽透」
頭を撫でられて、羽透が、ぼうふっと鳴く。
……狼ならいいんだろうか? というか、飼いならされた狼って犬なんじゃ……? などと、至極まっとうなツッコミの言葉が思い浮かぶ燻狼だったが、それを苦笑で呑み込んで……。
「それはそれは……。それで? その狼さまが、このようなところでいったいなにを?」
「知れたこと。我は、戦士だ。我が友ミーアを守るため、そして、兄、火馬駆の仇を討つためにきた。お前たちが見つけられたのは、幸運以外の何物でもない」
そんな慧馬の言葉に反応したのは、隣の男だった。バンダナの男は、興味深げに慧馬のほうに目を向けて……。
「ほう! 兄の仇討ちとは面白い。その狼を使って、俺と戦おうっていうのか? それとも、お前自身が剣を取るつもりか? 戦士の小娘よ」
バンダナの男は、嘲笑を浮かべ、剣を抜く。
「まぁ、俺はどっちでも構わないがね」
「ああ。殺さないでくださいよ? あれは、人質にするんですから」
慌てて、燻狼が言った。
そう、それこそが、彼の狙いだ。
かつて、ミーア・ルーナ・ティアムーンを追い詰めたやり方……。
彼女の大切な者を人質にしておびき寄せる。帝国の叡智唯一の弱点を突く策である。
対して、慧馬は、ふふん、っと鼻で笑い、
「我が戦うまでもない。さぁ、こい! 帝国最強の騎士ディオン・アライアよ!」
堂々と胸を張り、声を上げた!
話の流れ的に、今度の月曜日もミーアは寝てることになるかと思います。
ということで、ミーアの登場は火曜日になります。