第百話 ……はぇ?
「大丈夫……大丈夫……」
パティが落ち着くように何度も何度も、ミーアはつぶやく。
繰り返すことしばし……徐々に、パティに落ち着きが戻ってきたことを感じ……。
「大丈夫……大丈夫、だいじょう……ぶ?」
ミーアは、チラリと目を動かして、シュトリナを観察。彼女のほうは大丈夫かどうかを確認しておく。
――ふむ、変わった様子はありませんわね。やっぱり、パティの影響によって、リーナさんが変わってしまったということはなさそうかしら……?
と、そこで、シュトリナと目が合った。心配そうにパティを見つめていたシュトリナだが、どうやら、ミーアの視線を感じたらしい。不思議そうな顔で、きょとん、と首を傾げるシュトリナに、ミーアは、思わず悩んでしまう。
――ふむ、リーナさんも割となにを考えているのかわからない方ですけど……。どうなのかしら……。
パティの頭をなでなでしつつ……、ミーアは口を開いた。
「ええと、リーナさん、つかぬことをお聞きしますけど……ベルのトローヤって持っ……」
「これですか?」
シュシュっと、襟元から子馬のお守りを取り出すシュトリナ。どうやら、紐をくっつけて、首飾りにしているようだった。とても大切そうに、それを差し出してくる。
「肌身離さず持ってます。リーナの宝物です」
「ふむ……ちなみに、先ほど持っていた瓶の中身は……?」
「気持ちが落ち着くお薬です。数種類の香草を煮詰めて作ったもので、夜、寝る時なんかに枕元に置いておくと、ぐっすり眠れるんです。なんだと思ったんですか?」
あっけらかんと言うシュトリナに、ミーアは思わず、ほぅっと安堵の息を吐く。
「いえ、てっきりわたくし、毒かなにかだと……」
そう言うと、シュトリナは、ちょっぴり傷ついた顔で……。
「もう、ミーアさま。いくらリーナでも、毒を持って廊下を歩いたりはしません」
その答えに、ああ、悪いことをしたかな? と一瞬、思うミーアだったが……。
「……誰の目があるかわからないんですから」
――不思議ですわ! ちょっぴり言葉を付け足しただけで、不穏さが跳ねあがりましたわ!
目を丸くするミーアである。言葉とは不思議なものである。
まぁ、それはともかく……。
「パティ、少しは落ち着きまして?」
ミーアの問いかけに、パティは答えなかった。しかし、どうやら、このままどこかに走って行ってしまうということはなさそうだった。
「わたくしの部屋にいきましょうか。あなたにお話ししたいことがございますの」
そうして、パティの手を引いて、ミーアは先ほどの部屋に戻ってきた。
部屋には、ジルの姿はなく、代わりにアンヌの姿が増えていた。
「大丈夫ですか? ミーアさま、先ほどは、慌てておられましたが……」
気づかわしげな口調で問いかけてくるルードヴィッヒに小さく頷きを返し……。
「ええ。問題ありませんわ。大丈夫」
それから、パティのほうに目をやる。
「ただ、もう潮時だと思いますわ。そろそろ、パティに事情を話してあげる時ではないかと思いますの」
ミーアは巧みなベテラン海月である。潮の満ち引き、波を完璧に読みきるため、浜辺に打ち上げられることはない。ほとんどない。
浜辺に打ち上げられて、ぐんにょりしてる海月と、ベッドに打ち上げられてぐんにょりしてるミーアとに類似性を見出さんとする者もいないではないが、まことに失礼な話である。
そんな、ベテラン海月のミーアの勘が告げていた。
今がその時。秘密を話すべき時である、と。
「それでは、リーナはここで……」
っと、同じく空気を読んだシュトリナが一礼して部屋を出ようとする。
「そうですわね……いえ」
シュトリナを送り出そうとしたミーアであったが……そこではたと気が付いた。
「いえ、やっぱり、リーナさんにも残ってもらおうかしら。おそらく、あなたにも関係ない話ではないと思いますし……。それに、脱蛇を経験したあなたにいていただけると心強いですわ」
「脱、蛇……? イエロームーンなのに……?」
不思議そうに目を瞬かせるパティ。その頭を優しく撫でてから、ミーアは言った。
「ええ。そうですわ。リーナさんは、蛇の支配から抜け出した、とても頼りになるお姉さんですわ……。ところで、パティ、つかぬことをお聞きしますけれど、ここはクラウジウス候の執務室で合ってますわよね? パティは入ったことありましたの?」
「いえ……。子どもは入ってはダメって……」
「なるほど……」
そう言いながら、ミーアは壁に歩み寄る。そこにかけられていた肖像画に手をかけて外すと、パティのところに歩み寄り……。
「では、パティ、この肖像画に見覚えはありますかしら?」
肖像画をまじまじと見つめるパティ。凍り付いたような無表情が、ジワリ、と溶けるかのように、驚愕に変わっていく。
「これ……この絵……ハンネスに似てる。似てるけど、でも……」
もの問いたげなパティに、ミーアはゆっくりと頷いてから、
「もう、おおむねわかっているかもしれませんけれど……」
小さく咳ばらいをして、告げる。
「ここは、あなたが生きていた時代よりもずっとずっと後の……未来の世界ですわ。ここに描かれているあなたの弟は、あなたが知っているより何十年も成長した姿をしている」
それから、ミーアは自らの胸に手を当てて続ける。
「そうして、わたくしは、あなたの孫娘、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ」
それを聞き、目をまん丸くしたパティは、ポカンと口を開け……。
「……はぇ?」
力のない息を吐くのだった。
今日からまた再開します。