第九十八話 あの日の温もりをあなたに……
「り、りり、リーナさん……?」
シュトリナのほうを見たミーアは……思わず悲鳴を上げそうになった。シュトリナの手に、なにやら、謎の小瓶を見つけてしまったからだ。
――あっ、あれは、まさか……毒?
ゴクリっと生唾を飲み込みつつ、ついつい思ってしまう。
――リーナさんが……悪に染まってしまいましたわっ!
などと……。
理由はとても簡単で……パティはきっと、イエロームーン家を赦さなかったから、である。
――弟の仇としてきっと恨みに思ったはず。きっと何かしら、復讐をしたはずですわ!
シュトリナが目の前にいる以上、家を取り潰したりはしなかったのだろうが、それでも、優しい言葉をかけたりはしなかったに違いない。
ローレンツは言っていた。
ミーアの祖母がかけてくれた言葉が、自分の支えになったのだ、と。けれど、もし、パティがローレンツを仇と思っていたなら、そんな優しい言葉なんかかけるはずがないわけで……。その影響で、ローレンツが、暗殺に手を染め、シュトリナも闇に堕ちている可能性は大いにありそうだった。
――ひぃいいっ! り、リーナさん、あの瓶をどうするつもりですの?
イエロームーン家が蛇の思惑に従って動いていることに変わってしまえば、当然、ミーアは敵。シュトリナのターゲットになってもおかしくはないわけで……。
――しっ、しかも、よりにもよって、なぜ、そっちに行きますの、パティ!
あの状態のパティを放っておくわけにもいかず、ミーアは仕方なく追いかける。
「パティ、待ちなさい! 今のリーナさんには……」
近づいたら、ダメだ……と言おうとするも間に合わず……。
パティは、そのままシュトリナにひしっとしがみついた。
「ああ、ちょうど良かった。今、少し落ち着く薬を……」
という、優しげなシュトリナの言葉を遮って、パティが言った。
「イエロームーンのお姉さん……、私を、殺してください」
「え……?」
「……生きてても、もう、仕方ないから……。殺して、ください」
懸命に、すがるように、パティは言った。
ハンネスが殺された……。
その事実は、パティを打ちのめした。
先ほど聞いた話を、疑うことはなかった。
イエロームーン家は、暗殺をもって、初代皇帝の志を成さんとする一族。それを知る者は、帝国内でもごくわずかだ。それを知る事情通が、ハンネスが暗殺されたと言っていた。
その事実は、混乱するパティの思考に、とどめを刺した。
細かな違和感や疑問を考える余裕は、すでに残っていなかった。
彼女の心は、すでに限界だったのだ。
年老いた顔見知りのメイド。様変わりしたクラウジウス邸、ハンネスと共に植えた庭の木……。
優しくしてくれる人たちと、その人たちを犠牲にしてでも為さなければならないこと……。
ハンネスを助けるために、蛇になり、すべての人たちを不幸にする。自分に優しくしてくれる人も、友だちだって言ってくれた人も……みんな、みんな……。でも……。でも!
そうまでして守ろうとしたハンネスが、死んだという。殺されてしまったという。
ならば……、これから、なんのために生きていけばいいだろう?
蛇として生きることに意味はない。されど、今さら、ヤナに友だちだって言うことはできなかった。
マティアスに、養子としてもらわれることもできない。
だって……自分はずっと心の中で、彼らを犠牲にすることを考えていたのだから。
どんなものをも蛇のために、ハンネスのために、犠牲にしようと、思っていたのだから……。
パティの胸を占めるのは、後悔と、深い諦めの心だった。
結局、悪いことをして、蛇の力に縋って、ハンネスを助けようとしても……無駄だったのだ。
そうして、なにもなくなった彼女は、ふと思ってしまう。
――もう、いいんじゃないかな……。生きていても仕方ないから……。
「パティ……」
ミーアは、悄然とした様子のパティを見つめていた。
なぜ、過去が変わらなかったのか……?
それは、今のパティがそのまま過去に戻ったとしても、イエロームーン家になにも及ぼさないから……。彼女は、なにかしようという気力を折られてしまったからではないか?
「これは……急いで事情の説明をしなければなりませんわね」
ここが未来であること……。ハンネスが、恐らくは生きているということ。それから、自分が、パティの孫娘であること……。
説明すべきことは、山積みで、整理したい事柄は溢れてて……でも、今は……。
ミーアは静かに、パティに歩み寄ると、その小さな体をギュッと抱きしめる。
どこにも行かないように、彼女が消えてしまわないように、しっかりと、力強く。
「パティ、大丈夫ですわ……大丈夫」
それは、かつて、ミーアがしてもらったこと……。
ただ一人、断頭台に登らんとする、その日……。
恐怖で折れそうになっていた彼女の心を支えた、ただ一つの温もり。
あの日、アンヌにしてもらったのと同じことを再現するように、ミーアはパティを抱きしめる。
「大丈夫……大丈夫」
言い聞かせるように、何度も、つぶやきながら。