第九十七話 名前の由来……?
「パティさま、とりあえず、こちらで休みましょう」
アンヌに連れられてパティがやって来たのは、奇しくも、かつて彼女が生活をしていた部屋だった。
その部屋を見て、パティは、また混乱する。
内装が一変していたためだ。
――ここは……なに?
まったく見覚えのない外国ならば、まだ、理解できた。
けれど、連れてこられたここは、パティの知るクラウジウス領の光景を、中途半端に残した場所だった。
ゆえに、パティはかつてないほどに混乱していた。
人の気配の絶えたクラウジウス邸と、どこにもいない弟、ハンネス。
仕立屋の年老いた店主と、どこか寂れた様子のある領都。
――これは、なんなの……?
なにが起きているのかわからない。
最初は、蛇の躾の一環だと思った。
蛇の工作員として、どのような状況にあっても適切に動けるように……。そんな訓練だと思った。
でも、どうやら、それは間違いだったらしい。しかし、では、これはどういうことなのか?
ここは、どこなのか?
無数に湧き上がる疑問。それが、さながら霧のように体にまとわりつき、目の前の光景を歪めていく。ふわふわと、不安げに揺れる不安定な世界。
そんな中、ただ一つ確かなのは、背中に感じる温かな手の感触……。
自らの友を名乗るヤナが、優しく、背中をさすり続けていた。
その、友の温もりだけが、この霧に包まれた不確かな世界で、唯一、確かなものだった。
――友とは、空腹の時のカッティーラのようなもの……。
先ほど、よくわからない男に言われたことが頭の中を過る。
皇帝を名乗るあの男……名前は、確か……。
「失礼する」
ドアの外で声。アンヌという名のメイドが慌てた様子でドアを開ける。
立っていたのは、皇帝を名乗る男だった。彼は、部屋の中を見回して、目を細めた。
「ここは……ああ、懐かしいな……。母上が使っていたという部屋だ」
――この人の名前は……そうだ。マティアスだ。
思い出し……それから、マティアスの顔を見て、思わず、パティは微笑ましい気持ちになる。
なぜなら、マティアスという名は、ずっとずっと昔……まだ、パティの母が生きていた時に飼っていた犬の名前だったから。病気で死んでしまった……大切な家族だった……その犬の名前だったから。
そんな犬と同じ名前を持つ男に、パティは不思議な親近感を覚えていた。
――それにしても、皇帝陛下って、呼ばれてたけど……。どういうことなんだろう?
改めて考える。
パティの知る限り、ティアムーン帝国の現皇帝も、その息子も、このような顔ではない。多少似ているような気はするが、別人であると断言できる。
では、いったい、これはどういうことなのか……?
首をひねるパティに、マティアスは笑いかけた。
「先ほどは、元気がなかったようだが、大丈夫かね?」
パティは、その言葉に、こくん、と小さく頷き……それだけで済ませた。
隣にいたヤナが慌てた様子で、
「あ……あの、えと……パティは、たった一人の家族の弟と離れ離れになってて、それで、それが心配で元気がなくって……。だから、あの……れ、礼を失することもあるかもしれないけど……」
まるで、本物の皇帝に相対した平民のように、緊張に強張った顔で言うヤナ。一方、マティアスは、そんなヤナの頭にずん、っと手を置いて髪を撫でた。
「そう緊張する必要はない。今の私は、お前たちの親ということになっているのだ。そのような態度では、偽装がすぐにバレてしまうではないか」
なんとも威厳たっぷりな顔で言ってから、
「それに、お前たちは我が娘ミーアの寵愛を受けた子どもたち。ならば、我が寵愛の内にあると考えてもなにも問題はない。なにしろ、もし万が一、私がお前たちに酷いことをしてみろ、ミーアに嫌われてしまうではないか?」
そんなことはありえん、と愉快そうな笑みを浮かべてから、マティアスは言った。
「しかし、そうか。たった一人の家族……。ということは、ヤナとキリルと似ているな……。ちなみに、お前の親は……」
「……いない。死んじゃったから……」
小さく首を振りながら、パティは言った。
一応、現在は、クラウジウス侯爵が親ということになっているが、パティはあれを親だと思ったことは一度もない。恐らく、相手もそうだろう。
「そうか……」
マティアスは、何事かを考えるように腕組みをし、うーむ、と唸る。が……。
「私は、友が大切ということは知っているが、同時に家族の大切さもよく知っているつもりだ……。どうかね? いっそのこと、みなで本物の家族となってしまうというのは……」
「え……?」
ぱちくり、と瞳を瞬かせるパティの目の前で、マティアスはうんうん、と上機嫌に頷く。
「我が養子として、お前たちを本当に引き取るというのは、なかなか良いアイデアではないか。そうすれば、お前たちが空腹に苦しむことはないし、将来を不安に思うこともないはず。そうだそうだ、それならば、ベルも一緒に……」
トンデモないことを言い出した!
「陛下……あの、そのようなことは、さすがに……」
っと、やんわりと諫めにかかったのは、シュトリナだった。大貴族の令嬢たるシュトリナ以外、マティアスを止める者はいなかったからだ。が……。
「ああ。確かに、帝位の継承権は面倒そうだな。その辺りのことは、宰相になんとかさせて……。ミーアも反対はしないだろうし、これは、なかなか良いアイデアなのでは……」
「どうして……?」
不意に口を開いたのは、パティの隣にいたヤナだった。
「どうして、そんなふうに助けてくれるんですか?」
そう問いたくなるヤナの気持ちはよくわかった。
パティも、かつてクラウジウス家に引き取られた時に同じように不思議に思い……そして、その答えに絶望したのだ。
反射的に、パティはマティアスに目を向けた。マティアスは、特に考えるでもなく……。
「決まっているだろう。ただの気まぐれだ」
至極当たり前の様子で言い切った。
「……気、まぐれ……?」
小さくつぶやくヤナに、マティアスは言った。
「あるいは、持つべきものの傲慢、かな……」
自嘲するように笑い、彼は続ける。
「目の前で、蜘蛛の巣にかかった蝶が美しければ助けるだろう? それと同じこと。森で、傷ついた兎がいれば、哀れに思い手当するだろう? それと同じことだ。ただ、それだけのこと。蜘蛛が空腹で死のうと知らぬ。兎を食べるキツネのことなど知らぬ。我が目の届かぬ場所にいる、無力な弱者のことを助けるつもりはない。凡愚なる皇帝にできるのは、その程度よ。ただの傲慢。理由などない。優しさでも思いやりでもない。ただの気まぐれで傲慢だ。ゆえに……恩に感じる必要もない」
そこまで言って、けれど、マティアスは朗らかに笑った。
「だが、我が娘のミーアは……違うぞ? 自分の力を好き勝手に使うのではなく、国を、世界を変えて、多くの者を救おうとしているのだ。あれは、私には過ぎた娘だ」
愛する娘を誇るように、胸を張って。
それを聞き……パティは思ってしまった。
――多くの人々を救おうとする娘の功績を誇らしげに笑える……この人も、きっといい人だ……。
そして同時に思う。
ハンネスの命を救うためには、こういう人たちを絶望に堕としていかなければならないのか……と。
「……少し、トイレに」
そう言って、パティは静かにその部屋を後にする。
なぜだろう、これ以上、彼の声を聞いていたくなかった。
自分を心配してくれるヤナのそばにもいたくなかった。
そうして、パティが向かったのは、ミーアたちがいる部屋だった。
そこで、彼女は……。
大型犬っぽい名前です




