第九十六話 ミーア姫、冴え渡る(ひさびさに……)
「ぱっ、ぱぱぱ、パティ? あ、あなた、今の話、聞いておりまして?」
ミーア、思わず、パティに歩み寄る。っと、それに合わせて、パティは一歩、二歩、と後ろに下がる。その顔は血の気を失い、その瞳には絶望の色が見えた。
――ああ、これ、絶対、聞いておりましたわね? しかも、この様子からすると、暗殺のくだりから、バッチリ聞いてましたわ!
そう確信した瞬間、ミーアは頭がクラァッとするのを感じる。そうして――思わず、戦慄する!
――あら? 今のって、もしや、過去が書き換わった時に感じるやつじゃないかしら?
以前、バルバラの事件の時に覚えた違和感と今の違和感は……なんだか、似ているような気がしたのだ! まぁ……実際のところ、そのクラァッ! は、一大事を目の前にした際の小心者の眩暈に過ぎず……時間の揺らぎによって生じたものではなかったのだが、まぁ、それはともかく。
――や、やや、やばいですわ。これは、もしかして過去が変わってしまったということですのね……? でも、どのように……?
ミーアは推理を進めていく。
すでに、坂道を上ることで、糖分の大部分を消費しつくしているミーアであったが、懸命に、懸命に、頭脳を働かせる。
それはさながら、短距離走の選手が、ゴール付近、呼吸を止めてラストスパートするがごとく……。糖分をすべて燃焼しつくして、ぎゅんぎゅん脳みそを回転させていく。
――パティはローレンツさんが、殺しをしたことがないってことを知らない。もしも、パティがイエロームーン家を弟の仇として恨むようなことがあったら……? イエロームーン家をぶっつぶしてやろう! なぁんて思っても、不思議ではないかもしれませんわ!
ミーアは知っている。
誰しもがミーア・ルーナ・ティアムーンのように、寛容ではいられないということを。
そして、それはミーアにしては珍しく真実である。
誰しもが、ミーア・ルーナ・ティアムーンのように、小心者ではないのだ。
――お祖母さまが、苛烈な復讐者となってしまった場合、今は、どのようなことになってしまうのか……?
嫌な予感に突き動かされるように、ミーアはさらに、パティに歩み寄る。
「ぱっ、パティ……?」
けれど、パティはうつむいたまま……。その場で踵を返して、走って行ってしまう。
「あっ、ちょっ、パティ? お待ちなさい」
慌てて、ミーアは追いかける。途中、ルードヴィッヒたちに声をかけようとするが、すぐに思いとどまる。
――過去の歴史が、ルードヴィッヒにどう影響してるかわかりませんわ。パティの影響がどのように及んでいるかわからない以上、他者の手は借りづらいですわ。
今いる者たちは、はたして、味方か敵か……。過去の改変がもしも行われてしまっていたとしたら、判断がつかないからだ。なので、
「わたくしは、パティを追いますわ。後のことは、任せましたわよ」
そう言っておく。すると、まるでミーアを安心させるように、ルードヴィッヒが深々と頷き、
「どうぞ、お任せください」
と、力強く言ってくれた。
安堵の息もほどほどに、ミーアは部屋を走り出た。
――どうやら、ルードヴィッヒにはさほど影響を与えていないみたいですわ。
基本的に、ミーアの脳みそは、休眠状態になっていることが多いが、危機に際した時には、若干、マシになることがないではない。
そして、今のミーアの脳みそは、過去有数の危機に、かつてないほどに活性化していた。
すでにモクモク湯気が出始めていることから見ても、それは確実だ。
――パティはまだ過去に戻っていない。だから、現在が揺らぐなんてことは、ほとんどあり得ないはずですわ。
だって、まだ、目の前にパティがいるのだ。彼女が影響力を行使できるのは、過去に戻った後のはずなのだ。にもかかわらず、現在に影響が来る、というのはどういう状況だろうか?
――過去に戻ることが決まっているのと同様に、過去で変えることが確定しているようなものに関しては、揺らいでも不思議ではない、ということかしら? 例えば、わたくしが過去に戻ることが確定した瞬間に、断頭台の時間軸はすでに揺らぎ始めても不思議ではないはずですわ。断頭台にかけられるのなんか、まっぴらですもの。
懸命に手足を動かしながら、ミーアは考える。
であるとするならば、今の時点で影響が出ることは、パティにとって「過去に戻ったら絶対に変えなければいけないこと」と「変えることが容易なこと」の二つだろう。
断頭台への流れというのは、ミーアの中で絶対に変えなければならないことではあったのだが、変えることが容易ではなかった。同じようにパティも、過去に戻ったとしても絶対に変えられないことというのは存在しているはずで……。
そういうものは、恐らく影響を受けづらいはずで……。
――そして……その二つの条件がそろってしまうのが、イエロームーン家のことですわ! よりにもよって、弟の暗殺をイエロームーン家がした、などということを聞かれてしまうとは……。
もしも、パティが、そのことに関して、ナニカしようと考えたとして……歴史の流れにどのような影響が出るのか……。
っと、その時だった。
ミーアは、再び、頭がクラァッとするのを感じた。
またしても過去が変わってしまったか!? と焦りかけるミーアであったが……。
「ああ、これは、違いますわね。頭を使いすぎて、くらくらしてきただけですわ」
ミーアの頭からは、もくもく、煙が立ち上っていた。知恵熱でクラァッとしてしまったミーアなのである。やはり、慣れないことはするものではないのだ。
「うう、これは、やっぱり、デザートに甘い物を出していただかなければ、割に合いませんわ……」
ただでさえ、坂道を上って足がパンパンなところを、さらに、パティとの追いかけっこはさすがにこたえる。
それでも、足を止めることなく、パティの小さな背中を追っていたミーアの……その目の前に、ゆらり、と人影が現われた。
可憐な野の花のような笑みを浮かべる少女……。
「りっ、りり、リーナさん?」
イエロームーン家令嬢、シュトリナが、不思議そうにミーアのほうを眺めていた。
そして、その手には……。
来週はゴールデンウイークのお休みとします。