第九十二話 イエスマン戦術の展開と応用~恋愛編~
領都クラウバルトの中心地である大通り……そこから、かつての領主の館、旧クラウジウス邸へと向かう道すがら……。ミーアは、町の雰囲気が微妙に変わってきたのを敏感に察する。
――なんだか……町全体が暗くなってきた……ような……?
辺りをキョロキョロ見回して、ミーアはすぐにその理由に気付く。
――ああ、木が……。空を塞いでおりますのね……。
さながら、森の中に来てしまったかのように、木の数が増えてくる。それに、立ち並ぶ建物にもツタが這い、なにやら……不気味な雰囲気になってきた!
――呪われた、クラウジウス家……。
ゴクリ、と喉を鳴らすミーアに、
「おおー、懐かしいな……。この道は変わらぬなぁ」
父、マティアスが陽気に話しかけてきた。
「幼き日は、この道を通るのが嫌で、すっかり足が遠のいてしまったものだが……」
「あら、お父さまもですの?」
まさか自らの父に……この父に! 薄暗い雰囲気で憂鬱になるなんて繊細なところがあったとは、と瞠目するミーアであったが……。
「無論だとも。なにしろ、ここの坂は長いからなぁ……。階段もいまいち上りづらいし……やれやれ、なぜ、こんな作りにしたのか……」
父の言葉に、ミーア、はたと薄暗い道を見た…………見上げた!
薄暗い道は、まるで山道のように、長く、ながぁく! 続いていた!
「こっ、これは……」
「まぁ、もっとも、なまった体にはちょうど良いかもしれないがな。わははは」
能天気な父の笑い声をよそに、ミーアはげんなりと館のほうを見上げた。
「ああ、馬が……ほしいですわ……。馬は、どこまでも遠く……高いところにわたくしたちを運んでくれるものですもの……」
林馬龍が聞いたら惚れ直してしまいそうな名ゼリフをつぶやきつつ、ミーアはため息を吐いた。
――まぁ、たっぷり運動すれば、その分、ケーキも食べられますし……。今日の夕食を豪華にするためと思えば我慢できるはずですわ。物は考えようですわね!
それから、ミーアはアンヌのほうに目をやった。
――アンヌ、この坂を上りますから、今日の夕食は、あまぁいケーキをつけてもいいですわよね?
という意味を込めて、ミーアは言う。
「これは、よい運動になりそうですわね」
ミーアの言葉に、アンヌはニッコリ微笑んで言った。
「はい。馬車の中で甘いカッティーラを食べましたから、その分ですね」
――あら? 妙ですわね……。微妙に計算が合わないような……? この坂を上るのは、今夜食べるケーキの分なのでは……? あら……?
ミーアとアンヌとで、計算に若干のズレが生まれているような気がしないでもなかったが、まぁ、難しい数学の問題ではよくあるお話なのである。
そうして、ミーアが、ひぃー、ひぃー! 言いながら坂を上っていると、坂道を元気よく駆け上っていく父、マティアスとベルの姿が見えた。
「あはは、競争ですよ。ほら、リーナちゃんも。キリル君も行きますよ?」
なぁんて、元気のいい声を上げるベル。その後ろからはキリルも楽しそうに走っていく。
「ああ……すごく、元気ですわね……。あれが、若さというものなのかしら……?」
っと、先頭を元気よく走っていくマティアスのことはスルーしつつ、ミーアはふと後ろを見た。すると……。
「ふぅ……」
か細く息を吐き、シュトリナが額の汗を拭っていた。
不意に吹いてきた風に、蜂蜜色の髪がフワリと揺れて、キラキラと輝きを放った。
……その光景に、思わずミーア、見惚れる。
視線に気付いたのか、シュトリナは、健気そうな笑みを浮かべて、
「この坂は、なかなか疲れますね。ミーアさま」
などと、愛らしい声で言った。
――ふむ、妙ですわ……。なぜかしら……? わたくしと同じようにバテているはずですのに……リーナさんは、なぜ、こんなにも可憐に見えるのかしら……?
それは、もちろん「ひぃーひぃー!」とか、「いよーっこいしょー!」とか……疲れても変な声を上げないからなのだが……。
なにやら、こう……ヒロイン力というか、令嬢力というか乙女力というか……負けてはいけないもので致命的に負けてしまったような……そんな気がしてならないミーアであった。
けれど……。
「大丈夫かい? ミーア?」
「え? あ、ああ……アベル」
視線を転じると、アベルが心配そうに見つめていた。
「ええ……大丈夫ですわ。大丈夫」
「そうか。でも、無理はしないでほしい。もしも、倒れそうだったら、ボクが支えるから」
「まぁ! アベル……」
ミーア、ほわぁッとした顔で、頬を赤らめる。それは遠くから目を細めて見れば、割と可愛らしく見えなくもない……ギリギリヒロインの範疇に入るんじゃないかな? と思わせるような顔だった!
自らがヒロインの魅力に欠けていても、周りにヒロイン力を見出してくれる人を配置することによって、ヒロインとして君臨する。
自らは、反応を返すだけでいい状況を作り出したミーアである。
イエスマンたるを自らに課したミーアの応用力が恋愛面において光り輝いた場面と言えるだろう。
まぁ、それはともかく……。
「さぁ、もう少しだから頑張ろう」
そうして、アベルに元気づけられつつ、ミーアは坂を上る。上る。上る!
無心で足を動かし続け、再び、ひぃーひぃー! 言い出しそうになったところで、唐突に、その館が見えてきた。
坂の頂上、見下ろすようにして建っていた、その建物が……。
「おお、これが、クラウジウス邸……ですのね?」
零れたつぶやきは小さな問い。だが、誰かの答えを聞くまでもなく、ミーアの胸の内には奇妙な確信があった。
間違いなく、ここがクラウジウスの館。呪われし、クラウジウスの館である、と。
赤い夕陽を背負い、そびえ立つ館。それは一見すると、一般的な帝国建築の館に見える。
だが……なにかがおかしい。どこか、ちぐはぐな印象を受ける。
例えばそれは、屋根の形。帝国建築であれば、綺麗な三角形を描くべきところが、奇妙な丸みを帯びたものになっていたり……。あるいは、窓。異様に小さな窓ばかりかと思えば、突如、バランスの悪い大きなステンドグラスがついていたり……。
柱に関しても、なにが、とは言えないがなんとなく気持ちが悪い気がする。
ところどころに見える小さな違和感……微妙に調和を崩した建築物は、胸の内に微かな不安感を喚起する。それはまるで、異形の城が、帝国建築の皮を被って隠れているような……、その隠しきれない禍々しさが溢れ出してでもいるかのような……。
父、マティアスは、あの険しい坂を上るのが憂鬱だったと言っていたが、ミーアはその言葉が半分嘘であったのではないか、と考える。
――このお屋敷……なんだか、あんまり入りたくないですわね。本当に、呪いがかけられていそうな感じがしますわ。
ミーアは、ゴクリ、と喉を鳴らしながら、そのお屋敷を見上げるのだった。