第八十九話 その慧眼はすべてを見通す……見通す?
「ミーアさまがお作りになったカッティーラ、か……」
ルードヴィッヒは、それを受け取ると、しげしげと眺める。どことなくキノコの形っぽいそのカッティーラは、傘の部分が茶色、柄の部分が黄色をしていた。傘の部分には砂糖が散らしてあって、実になんとも甘そうだ。
じっくり観察してから、おもむろに一口。瞬間、舌に広がるのは濃密な甘味だった。程よくついた焼け目からは、芳ばしくも、まろやかな風味が香りたち、なかなかの美味であったが……。
ルードヴィッヒは思わず苦笑いを浮かべる。
――美味いが……俺にとっては甘すぎるな、これは……。
そう思った時だった。ふと、視界の外れに、馬車の中のアンヌの姿が入ってきた。ミーアの隣で嬉しそうにカッティーラを食べて笑う彼女を見て……彼は、ふと思う。
――ああ、良かったな……。ミーア姫殿下と一緒にカッティーラを食べられて……。
「ミーア姫殿下にカッティーラをお食べいただきたいのですが、なんとか手に入らないでしょうか?」
切実に、そう訴える彼女の顔が、まぶたの裏に映った。どこか思いつめたような顔で訴えるアンヌ……。疲れに陰ったその顔、あれは、いつのことだったか……。
一瞬考えてから、ルードヴィッヒは気付く。
それは、存在しない記憶の断片である、と……。
――そうだ。そんな出来事はなかった。俺は、こんな光景を見ていなかったはずだ……。だが、確かにあったという実感がある……。これが、記憶の揺らぎ……。今見えたのが、途絶えた世界の記憶なのだろうか?
眉間に皺を寄せて、ルードヴィッヒは唸る。
――どんな世界のものかはわからないが……。あまり、愉快なものではなさそうだ……。
胸に残る感慨は苦く、二度と味わいたくないもののように思えた。だからこそ……。
――今のこの時を守らなければならない……。絶対に……。
静かに、ルードヴィッヒは決意する。
「ルードヴィッヒ殿、どうかされましたか?」
ふと視線を転じれば、アベルが不思議そうな顔で見つめていた。
「いえ……。ただ、なにか見落としている危機はないか、と検証していただけです」
ルードヴィッヒは今回のお忍び旅に際して、しっかりと備えをしていた。
皇女専属近衛隊の内、六つの部隊を護衛に当てていた。四つの部隊を道々に事前に伏せさせ、さらに、二つの部隊を馬車から少し離れた場所に随伴させている。
さらにさらに、その部隊とは別に、火慧馬と戦狼の羽透にも、警戒に当たってもらっている。目立たぬように行動するうえでは、最大限の兵力を動員していた。
ちなみに、やや手が足りなくなってしまった食料輸送の護衛については、レッドムーン公の私兵団に助力を願った。
先日の乗馬大会での人脈が、早速、生きてきた形である。
――展開を先読みしていたというよりは、皇女専属近衛隊の手が足りなくなった時の備えをしていたのだと思うが……。いずれにせよ、さすがだ。
そうして、万全の体制を整えたつもりだったが……不安はぬぐえない。
「ははは、まぁ、そんなに緊張しなくっても大丈夫だと思うがね」
馬車の横に馬を寄せ、一人の騎兵が話しかけてきた。誰あろう、帝国最強の騎士、ディオン・アライアである。くたびれた革製の鎧に身を包み、冴えない護衛のカモフラージュをしている彼は、特に緊張した様子もない笑みを浮かべた。
「なにしろ、外から見れば、警備の薄い貧乏貴族の馬車……。あるいは、ちょっとした財を成した商人のご一行程度にしか見えないからね。襲ってきたとしても盗賊ぐらいだろう。そのぐらいなら、ね……」
ディオンは腰の剣に軽く触れてから、
「それに、大丈夫だと判断したから、今回の旅を決めたのだろう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべる。対して、ルードヴィッヒはあくまでも生真面目な顔で頷いて、
「そうだな。恐らくは問題ないとは思っているよ」
「理由をお聞きしても?」
ルードヴィッヒの隣で、アベルが真剣な顔で言った。その鋭い問いかけを受けて、ルードヴィッヒは眼鏡を軽く押し上げてから、
「そうですね……。混沌の蛇というのは、どこに潜んでいるかわからず、綿密に破壊を企てる。相手の心を読み、操り、支配する。極めて厄介な敵です。が……」
とそこで、言葉を切ってから、ルードヴィッヒは言った。
「彼らもまた、人間だということを忘れてはいけないと思います」
「というと……?」
「つまり、彼らはどこに潜んでいるかはわからないが、どこにでも潜んでいる、と考えるのは誤りではないかということです。当たり前の話ですが、彼らに見つからずに何かを為すことは、可能なのです」
それから、顎に手を当てて、ルードヴィッヒは続ける。
「蛇の基本的な構想というのは、組織を作ることにあらず……。彼らは既存の集団に入り込み、内部から腐らせ、自らの手駒に変えていく。それこそが蛇の構想。ゆえに、心から蛇に染まった者、蛇に忠誠をささげるような者は、実はそこまで多くないのではないか、と、私は見ています。無論、その少数の中に、狼使いのような腕利きの暗殺者が混じっていますが……そのような者たちであれば、ディオン殿や、皇女専属近衛隊でも対処はできるでしょう」
その言葉を受け、ディオンが肩をすくめる。
「まぁ、どんな相手でも、とりあえず、姫さんが脱出するまでの時間稼ぎぐらいはできるつもりだよ」
「なるほど。確かに、個の力でディオン殿を打ち破るのは不可能。他の皇女専属近衛隊の兵士も精兵揃い……。暗殺者からミーアを守ることはできる、か……」
納得の頷きをみせるアベルである。
「そして……重要なことは、恐らく彼らは守りに弱い。攻め込まれた時にできるのは、暗殺か、姿をくらますかぐらいしかできない。彼らは正面切って戦うことが苦手なのです。今回の我々の動きを察知することはできるかもしれないが、それに対して手を打つことは、おそらく難しいはずです」
「なるほど、確かにそうだ。彼らは厄介ではあるが決して万能ではない。得手不得手がある。それを正しく認識すれば、蛇を無暗に恐れる必要はないということか……」
腕組みするアベルに、ルードヴィッヒは頷いてみせる。
「そうですね。彼らは警戒に値する敵ではありますが……だからといって、敵の姿を必要以上に大きくすることもない。敵にしろ、味方にしろ、相手の実力を正しく知ることがやはり肝要なのではないかと思います」
「ああ、それは真理だ。相手の実力を過剰に見積もれば、緊張で実力が出し切れないものだしね」
それから、アベルは笑った。
「しかし、ルードヴィッヒ殿の慧眼は、すべての相手の真の実力を測るものですね……。その観察眼から逃れるのはなかなか大変そうだ」
素直なアベルの称賛が、わずかばかり照れくさくて、ルードヴィッヒはおどけてみせた。
「もしかしたら、この眼鏡のおかげかもしれませんね。私が普通の者より、よくものが見えているとするならば……」
それから、指で、くいっと眼鏡の位置を直すのだった。