第七十九話 惨劇、笑顔の弾ける料理会にて!
惨劇が――起きてしまった!
地下室にて、子どもたちを無事に保護したキースウッドとサフィアスは、急いで厨房へと向かった。サフィアスの案内で、階段を一気に駆け上がり、息を切らして駆け込んだ厨房で……すでに、事件は起きてしまっていた。
「なっ……こっ、これは……」
目の前に広がる光景に、思わず、キースウッドは息を呑む。
中央で立ち尽くしていたのは……。あわわ、っと顔を青くするミーアの姿だった。そして、その視線の先には、倒れて、ピクピクと震える、老齢のメイド、ゲルタの姿があって……。
「こっ、これは……いったい、なにが……」
なぁんて、わざとらしくつぶやきつつ、キースウッドは察していた。
ミーア姫殿下、ついにやっちまったか! っと……。
さて……では、ミーアがなにをやっちまったのか、というと……まぁ、大体、予想はできているかもしれないが、念のため……。
時間は少し遡る。
「さぁ、どうぞ、味見をしてくださいまし」
朗らかな笑みを浮かべるミーアから椀を渡されて、ゲルタは……内心で舌打ちする。
――おのれ、帝国の叡智。仕掛けてきたな……。
いつも通りの、張り付けたような笑みの下で、彼女は懸命に思考する。
敵の狙いはなんなのか……?
すでに、解毒剤は飲んでいる。解毒剤といっても、それは、鍋に投入した毒と拮抗させるための、別の毒である。すぐに死んだりはしないが、早く鍋を食べたいのが人情というもの。
ゆえに、ゲルタは焦る。このタイミングで仕掛けてきた、帝国の叡智に……。
――いったい、なにを企んでいる……?
彼女は、ジッと椀……ではなく、ミーアの顔を見つめる。恐らく、椀に何かしらの仕掛けをしたのであろうが……なにか薬を混ぜられたというのなら、どの道、見たってわかりはしない。第一、見てわかるような危険な物を入れるはずがないではないか!
この限られた時間で見るべきは、むしろ、帝国の叡智。その表情や、仕草のほうだ。
ゲルタは蛇だ。
若き日より、クラウジウス家のメイドとして、混沌の蛇の教えに親しんできた。
蛇は心を操る者。相手の心を読み、欲望を読み、感情を読み解く術を会得している。
一番自信のある武器をもって、仇敵、帝国の叡智を打ち倒すのだ!
これは、まさに、ゲルタにとって一世一代の勝負の時といえた。
これまでの人生、数十年をかけて培ってきた……絶大なる自信を持つ読心術をフルに利用し、ミーアの心を読もうとする。
けれど……ああ、けれど! ミーアからは、なにも読み取れない。
その表情からも、仕草からも、読み取れるのは、ただただ、協力してくれたメイドに対する素直な感謝の気持ちのみで……。
ゲルタが予想していたような、敵意も、怒りも、策略の欠片すらも、読み取ることができなくって。
――これは……どうなっている? どうなっているのだ?
時間はない。解毒薬の毒が、彼女の身体に回りつつあった。
焦りから、混乱しかけたゲルタであったが……、不意に、思い出したことがあった。
それは、帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンとは何者であるのか、ということ……。
聖女ラフィーナと友誼を結び、貧民街の住人を慈しみ、病院を立て、孤児たちを学校に入れて勉強させる……。かつては、帝国の聖女、慈愛の聖女と言われた、この小娘の本質……それは……善性であるということ。
――ああ……なんだ、そういう……。
ゲルタは、思わず、笑いだしそうになり、それを抑えるのに苦労する。
目を見開き、唇を軽く噛みしめる。それは、見ようによっては、皇女手ずからの厚意を受けて感動しているように見えなくもなかったが……。
……その内心で、彼女は思っていた。
彼女は……苦労していたのだ。笑わないようにするために……。
――なんと、なんと他愛ない……! 帝国の叡智が、まさか、ここまで愚かだったとは……。
思わず、快哉を叫びたくなるゲルタである。
――恐らく、こいつは、裏切り者のイエロームーンから、報告を受けたのだろう。私の部屋から、なにも見つけることはできなかったと……。だから、帝国の叡智は信じることにしたのだ。この私を……シューベルト家に長年仕え、信頼を勝ち得てきた、この私を!
あるいは、もしかしたら、クラウジウス家に仕えていたメイドがどこか別の貴族に仕えているということだけしかわかっていなくて確信がなかったのかもしれない。
そもそもクラウジウス家の裏事情だって、そう簡単に調べられるようなものではない。よくよく考えれば、自分の足跡は、できる限り隠してきた。怪しまれるようなことは、何もないわけで……。
人を疑うのではなく、人を信じることに重きを置く善性。それこそが帝国の叡智の本質。だから、自分を信じることに決めたのだ、と……それを悟った瞬間、ゲルタは勝利を確信する。
今まで、数多の蛇たちが煮え湯を飲まされてきた敵。長きに渡り、積み上げられてきた帝国滅亡の企みを完膚なきまでに破壊しつくした、蛇の仇敵……。帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーン。
それが、他愛もなく笑みを浮かべ、親しげに食べ物を差し出してくる光景に、ゲルタは、スッと胸がすく思いだった。
――ふふふ、自分が毒を盛られたと気付いた時、この小娘はどんな顔をするのやら……。
それが、今から楽しみで仕方なかった。
思えば、ゲルタは、帝室に恨みがあったのだ。
それは、ミーアによって、計画を叩き潰されるよりも前のこと……彼女の祖母に対して、ゲルタは極めて強い恨みを持っていたのだ。
――せっかく、クラウジウスの家で養い、蛇として鍛え、皇帝を絶望の淵に堕とすよう教育したというのに……あの娘は、それに逆らったのだ。許せるはずがない……。いや……そうではなかったか……?
遠い昔の記憶は、ふわふわとして、どこか曖昧だった。けれど、自身の努力を踏みにじられたという気持ちだけは、彼女の中に残り続けたのだ。
そんな憎悪に想いを馳せつつ、ゲルタは、野菜汁を口に入れる。
次の瞬間、口の中を駆け抜けたのは、瑞々しい野菜の風味だった。畑の恵みを一杯に受けた味の濃い野菜、キャロットの甘味、満月大根の辛味、ピリリと味を引き締める香辛料も、実に良いアクセントになっている。
さらに、底のほうにあったもの……コリッと良い歯ごたえのそれは、キノコだろうか?
一瞬、そんなもの入れたっけ? と思わなくもなかったが、たぶん、シューベルト家の使用人が気を利かせたのだろう。皇女ミーアはキノコが好きだというし、良い工夫である。
――しかし、ふふふ、面白いものだ。まさか、今になってクラウジウス家のことをこんなにも思い出すなんて……。あの子ども……。そうだ、あの子どもがクラウジウス家のことを口にしたから……いや、それ以上に、あの子どもが、どこか、パトリシアに似ていたから……か。
ゲルタは、改めて、目の前のミーアを……パトリシアの孫娘を見た。
――私が、孫を毒で殺したと知ったら、あいつは、どんな顔をするだろう……。そう考えるだけで、ふふふ、ああ、いけないいけない。また、笑ってしまうところだった。微笑むのは良いが、大笑いしたらダメだ。怪しまれてしまう。しかし、この野菜汁、なかなか美味くできたものだ。死ぬ前に、こんな美味い物を食べて死ねるのならば幸せなことかもしれない。そう思うと、あはは、面白い。うふふ……。
そこで、ゲルタは――異変に気付いた。
なにが、そんなにも笑えるのだろう……? この状況、そこまで笑えることだろうか?
と。
けれど、そんなことを不思議に思っている自分が、また、面白くって、さらに、ゲルタは苦しむことになる。
これは変だ……なにかが、おかしい……。
歯を食いしばり、目に涙をため、ひくひくっと肩を震わせながらも笑うのを堪える。
っと、不意に、ふにゃ、っと視界が歪んだ。
「げっ、ゲルタさん……? 大丈夫ですの?」
ミーアの心配そうな声。ぐにゃああん、っと歪んだその顔が、子どもが書いた似顔絵みたいな、ヘンテコな顔が、あまりにもおかしすぎて……ゲルタは、ついに吹き出した。
「あはははは、なっ、何ですか、その顔は……あはははは」
「なっ!?」
言われたミーアは、かっちーんと固まった。
――なっ、ひ、人の顔を見て笑うとは、なんたる無礼! 許せませんわっ!
などと、一瞬、キレかけるミーアであったが……。
「ミーアさま、怒る必要はありません。これは、あのキノコの効果です」
シュトリナに言われて、思わず、ミーアは目を剥いた。それから、改めて、笑い転げるゲルタを見て、もう一度、シュトリナのほうに目を向ける。
「ご存知なかったかもしれませんが、あのトロキシ茸は、食べると、笑いが止まらなくなり、さらに体が痺れて動けなくなります」
「え……? なっ……」
ミーア……思わず、言葉を失う。
なぜって……、だってこれは……ヤバイ事態だからだ!
――や、やばいですわ。これって、わたくし、やってしまったのでは……?
他家のベテランメイドに、ヤバいキノコを食べさせた、わがまま姫。そんな、悪評が付きかねないほどの大事である。ミーアの背中にだらりだらり、と冷や汗が流れ落ちる。
だっ、だだ、だって、シュトリナが大丈夫って言ったじゃん! っと、頭の中では言い訳の言葉がぐるんぐるん回っていて……だけど、同時に思う。実行犯は、自分だ、と。
それに、よくよく思い出せば、シュトリナは言っていたではないか。イエロームーン家では、死なない毒は毒とは呼ばない、と……。
つまり、シュトリナはこう思ったのではないか?
ミーアが下々の者を使って、怪しいキノコの効果実験をしようとしている……と。
ルードヴィッヒならば、確実に止めただろう。けれど、シュトリナは……、ミーアに恩がある。もともと、毒に親しんできたがゆえに、この程度の毒キノコならば食べさせても悪戯程度で済む、とか、どこかアレな倫理観を持っているのかもしれない。
ならば、自分は止めなくてもいいかも? とか、そんなことを思ったのではないか?
――いいえ、いずれにせよ、それは後。問題は、わたくしが、こっそり投入した毒キノコで、シューベルト家のメイドを昏倒させてしまったことで……。
あわわ、っと青くなるミーア。その時だった。タイミング悪く、キースウッドたちが厨房に駆け込んできた。
「なっ、こっ、これはいったい……」
言葉を失う者たちに、ミーアは、慌てて言い訳しようとしたのだが……。
「こ、これは……おのれ。あははは。く、は、はかったな、帝国の叡智。うふふ、あはは」
「え……?」
きょとん、と首を傾げるミーアの前で、シュトリナがすまし顔で言った。
「笑いが止まらなくなるのと、体が痺れることに加え、このキノコにはもう一つ、効果がある。それを狙って、このキノコを使ったのですよね、ミーアさま……」
そう言いながら、シュトリナはゲルタのそばにしゃがみ込み、
「もう一つの効果……それは……嘘が吐けなくなること……あなたは、混沌の蛇、ですよね?」
「おのれ、イエロームーンの小娘。我ら蛇の裏切り者め! あっははははー!」
ゲルタの、大変楽しそうな笑い声が厨房に響くのだった……。