第七十六話 人が罠にはまりやすい時
「しかし……よくよく考えると、これ、少しお野菜が多すぎないかしら……?」
机の上の野菜を半分ぐらい刻んだ(主にティオーナが……光速で……)ところで、ミーアは根本的な疑問に辿り着いた。
横長の机一杯の野菜、これをすべて刻んだとして、どれだけ大きな鍋に入れるつもりなのか……?
そんなミーアの疑問に答えるように、ダリオが一歩前に出た。
「それはもちろん、ミーア姫殿下に最高の物をお食べいただくためです」
たくさん、野菜を刻ませて、時間稼ぎをしようと思っている……などとは当然言わない。ダリオはできる男なのだ。
「たくさん集めた材料、その中でも上手く切れた物を料理に使う。そうして、作った最上の料理こそ、皇女殿下に献上するのに相応しいものになる、と……。そういうことです」
いかにも、と言った貴族らしい言葉。けれど、ミーアは、険しい顔で眉間を押さえた。
「そう……なるほど。そういうことでしたの」
ミーアは、そう言うと、そっと野菜切り用のナイフを置いた。
「? ミーア姫殿下?」
不思議そうな顔をするダリオに、ミーアは静かに言った。
「ダリオさん、一つ、覚えておくとよろしいですわ。わたくし、食べ物を無駄にするようなことは、絶対に許しませんわ」
ミーアは静かに、厳然たる口調で言った。
「この帝国には悪しき風習がある。地を耕し、農産物を作る者たちに対する軽視。けれど、これは、悪しき考え方ですわ」
かつて、隣国ペルージャンで、小麦を道に敷き詰める、などというもてなし方をされ、それで悦に入っている貴族がいたという。まったく、愚かしさの極みだと言わざるを得ない。
なるほど、今回のダリオの行動はそこまでひどくはないが、根っこの部分に同じような思想の流れを、ミーアは感じとっていた。
「食べ物を無駄にすることは許さない。けれど、これをすべてわたくしたちだけで食べきることは不可能というものでしょう。ですので、もう、切るのは十分なんではないかしら?」
不出来とはいえ……いささかヘタが混じってたり、皮がついていたりするものの、すでに、鍋に入れるのには十分な量の野菜の下ごしらえが済んでいた。
正論で武装したミーアの言葉は、非常に力強く……それゆえに、ダリオは慌てる。
「いや、しかし……でも」
「さすがは、ミーア姫殿下でございます」
言い淀んだダリオの隣で、ゲルタが感心した様子で手を叩いた。
「聖女ラフィーナさまにも劣らない、ご立派なお考え……。感服いたしました」
「ふふふ、まぁ、それほどでもございませんけれど……」
ふふん、と鼻を鳴らし、ミーアは胸を張った。そうして、ドヤァッと笑みを浮かべかけるも……すぐに思い直す。
――おっと、いけませんわね。わたくしとしたことが……。今日は、レティーツィアさんと仲良しになる日でしたわ。こんなことでいい気になっていてはいけない。
それから、バレないように一瞬で、表情を生真面目そうな物へと変化させるのだった。
さて、そんなふうに、瞬間的に表情を変化させたミーアを見て……ゲルタは思った。
――ふふふ、やはり。帝国の叡智といっても、まだまだ小娘。腹芸はあまりうまくないと見える。
褒められて喜んでいるふりをしていたものの、最後の最後でぼろが出た。
極めて真剣な表情をさらけ出した帝国の叡智に、ゲルタは、ニンマリと笑い顔を向ける。
――やはり、この娘は気付いている。シューベルト家に混沌の蛇の手の者が入り込んでいると……。ただ、確信がなかった。だから、探りに来たのだ。
ゲルタは、シュトリナが厨房を後にしたことに気付いていた。何気ないふうを装って、二人の子どもが出て行ったことも……。
――あれは、十中八九、この屋敷内を探るための者たち。裏切り者のイエロームーンは要注意だが、後の者たちは……。セントノエルの特別初等部に通っていると聞いたが……。
ゲルタは、ほぅ、っと息を吐いて……。
――我ら蛇と戦う人材を、セントノエルで育成し始めたということか……。つまり、あの子どもたちもまた、帝国の叡智の薫陶を受けた者たちということになる……。
ゲルタの中を雷が駆け抜ける!
彼女の頭の中では、シュトリナよりやや劣る諜報員が、四人もミーアの手の中に加わったことになっていた。しかも、一人など、まだ、十歳にも満たぬ幼子だ。
――恐ろしいことだ……。幸い、部屋を探られてもなにも出てはこないだろうが……。
燻狼からもらった毒も、解毒薬も、今、彼女が身に着けていた。当然のことながら、レティーツィアの誘拐計画書などもありはしないし、仲間二人は、この館の秘密の地下道に隠れている。
彼女を混沌の蛇と断定する証拠は、ない。
――とはいえ、敵は、かの帝国の叡智。油断はできない。やはり、この機に殺してしまうのが良いでしょう。
幸運なことに、シオン王子とアベル王子、さらにティオーナ・ルドルフォンもここにはいる。そして……サフィアスはいない。
犯人をサフィアスにし、帝国とサンクランド王国との関係を悪化させれば、再び世界を混迷へと陥れることは十分に可能。
であれば、今すべきことは……。
笑顔を作りつつ、ゲルタは辺りに視線を送る。
野菜を詰め込んだ鍋、その火加減を見ているのは、ダリオだった。恐らく、これには、姉や、ミーア姫が余計な手出しをしないよう見張っているという側面もあると思うのだが……。
ゲルタは、音もなくダリオに近づくと、そっと話しかける。
「ダリオお坊ちゃん、どうぞ、みなさまとのご歓談にご参加ください」
「いや、だが……」
「問題はございません。鍋は、私のほうで見ておきましょう」
それから、ゲルタは笑みを崩さず、続ける。
「それに、サンクランドのシオン殿下と仲を深めるのに良き機会ではございませんか。そういった役割を、サフィアスさまはご期待されているのではありませんか?」
シューベルト家の次期当主として、サンクランドとの誼は大切にしたほうがいいだろう、と暗に伝えて、誘導する。
ダリオは、しばし迷った末、ゆっくりと頷き、その場を後にした。
呆気なく自身の言動が信用されたことについて、ゲルタは特に何の感慨も抱かない。
信頼とは積み重ねるもの。十年、二十年の歳月をかけて勝ち取ってきた信頼は、自身の言葉に強力な説得力を増し加える。そのことを、ゲルタは、混沌の蛇の教えにより、知っていたからだ。
――さて、注意すべきはミーア姫とシオン王子。アベル・レムノも油断ならぬ人物だと聞いているが……。
その場にいるすべての者の視線が外れた……刹那! ゲルタは調味料を入れるふりをして、毒の入った瓶を振るった。
その粒が、鍋の中に溶け込んでいく、まさにその時、シュトリナたち一行が戻ってきた。
――間一髪……でしたね。ふふふ……。あの小娘がいたら、気付かれていたかもしれません。
内心で会心の笑みを浮かべつつ、ゲルタは鍋をかき混ぜる。
それから、周りの者たちの目を逸らすように努める。
自分からも、鍋からも……。
――一番に注意すべきは、やはり、シュトリナ・エトワ・イエロームーンか。
毒の投入に関しては、完璧だった。視線を奪い、誰の目にも留まらぬようにできた。あとは、そう。最後の仕上げ……。毒見を私自身がすれば、帝国の叡智は、死ぬ。
それは、帝国に隠れ潜む混沌の蛇にとっては、悲願の時。
ゲルタは、笑みが溢れるのを押さえることができなかった。
……この時、ゲルタは一つの蛇の教えを忘れていた。
それは「人は、誰かを罠にはめようとしている時が、一番、罠にはまりやすい」という、極めて基本的なものだったのだ。
彼女は、知らない。ミーア・ルーナ・ティアムーン、今なにをしているかを……。




