第七十一話 誘拐
ミーアたちが、楽しいクッキングトークをしつつ、料理の準備をする合間、ヤナはパティのことを見ていた。
――なんだか、パティ、さっきから様子がおかしい気がする。
友人の様子の変化を、ヤナだけは敏感に気付いていたのだ。
――先ほどの部屋で、いろいろな楽器を見るまでは、いつもどおりだったのに……。あの、メイドさんと会ってから、なんだかすごく変……。
最初は注意されたから、しょげてるのかと思った。やんわりとであっても、先ほどのは、悪戯を怒られた形だ。気にしても不思議はないのかもしれない。
でも……、パティはあんなの気にするほど、ヤワではないとすぐに思い直す。
そうなのだ、こう見えてヤナの友人、パティはタフな性格をしているのだ。ちょっとやそっとの悪口など表情一つ動かさないだろうし、相手にしないだろう。
大人に怒られても、たぶん、気落ちしたりはしないはずだ。
でもだからこそ、ヤナは心配になった。なにやら、いつもよりさらに口数少なくなった友人を見て。
――また、自分だけが楽しんで弟に悪いと思ったとか……? いや、そんな感じじゃないような……。
どちらかといえば、申し訳なさというよりは混乱している……そんな感じがした。でも、いったいなにに?
「……あの……少し、お手洗いに……」
おずおずと、パティが、近くに立っていた若いメイドに言った。
「あ、それなら、あたしも一緒に」
パティを一人にしてはいけない……。本能的にそう察したヤナは、素早く声をあげ、次に弟に視線を向ける。
「お姉ちゃん?」
ついて来ようとするキリルを、ヤナは首を振って制して、
「すぐ戻ってくるから。キリルはここでミーアさまのお手伝いをしてて」
それから、ヤナは、探検隊隊長のベルのほうに目を向ける。ミーアは、いろいろと忙しそうだったので……。
幸い、その視線の意味はすぐに伝わったらしく、ベルは、
「はい。キリル君の面倒はこっちでみてるから、行ってきていいですよ」
と、自信満々の顔で言った。それから、
「じゃあ、キリル君は、ボクたちと一緒に野菜の皮むきをしましょうか。ボクが見本を見せてあげましょう」
などと、偉そうに言っている! お姉ちゃんぶりたいお年頃なのである。
ヤナは「お願いします」と小さく頭を下げて、すぐにパティの後を追った。
すでに、パティは案内のメイドさんとともに、廊下を歩いていた。
「パティ、ちょっと待って。どうかしたの? なんだか、さっきから様子が変だけど……」
そう声をかけると、パティは小さく首を振って……。
「ううん……なんでも、ない。たぶん、気のせいだから……」
「でも…………っ!?」
っと、その時だった。突如、ヤナの口を、何者かの手が覆った。
「……んぅっ? ……っ!」
咄嗟に、噛みついて逃れようとしたヤナだったが……。
「おや、姫殿下のところにいるにしては、お行儀が悪い」
直後、首に細い腕が巻き付いてきて、締め上げた。ぐいっと体を持ち上げられて、ヤナがパタパタと足を暴れさせる。
「ぐっ……ぅっ」
昔、貧民街にいた時と変わらない、純然たる暴力。幼いヤナの体では、抵抗のしようがなかった。
目の前、パティもまた、後ろ手に腕を捕まえられていた。案内役の若いメイドが、無表情に、パティを見下ろしていた。
「声を出せば、この子の命を奪います」
ヤナの耳元で、メイドの声が囁く。苦しげに顔を歪めつつもヤナは思った。
そんなに小さな声じゃ、パティに聞こえるわけがない、と。
けれど、目の前でパティは……こちらに向かい、小さく口を動かす。声は、聞こえない。でも、ヤナを拘束する者から、小さく声が漏れた。
「驚いた……。唇を読むなんて……やはり、お前は蛇の教えを受けているのですね……しかし、私の名を知っていて、あの楽器に反応を示す……。クラウジウス家に所縁の者か……。そんな子どもがなぜ、帝国の叡智のそばにいるのか……取り込まれたのか、それとも蛇として動いているのか……」
囁くような声でつぶやいてから、ヤナを拘束する者……ゲルタは、若いメイドに目を向けた。
「その子どもは放していい。抵抗すればどんなことになるのか、よくわかっているでしょう」
それからゲルタは、グッとヤナを拘束する手の力を強める。息が苦しくなり、頭がぼーっとしてきて……。
「しかし、ヴァイサリアンの子どもとは……。つくづく帝国の叡智は、我らの秘密を暴くのが得意と見える。忌々しいことだが……それも今日までか……」
ゲルタは、ヤナの額を覗き込みながら言った。その暗い瞳を見て、けれど、ヤナは絶望したりはしなかった。むしろ、その胸にあったのは、深い安堵だった。
――キリルを置いてきて、良かった……。
自分たちを救ってくれた人のもとに、弟を置いてきたことだけが、ヤナにとっての救いで……でも、同時に思うのだ。
――もしも……あの子を、信用できないところに置いてきていたら……それは、どんな気持ちだろう?
うつむき加減についてくる友人が、いったいどんな気持ちだったのか……薄れつつある意識の中、そちらのほうが気になってしまうヤナであった。