第六十六話 銘:明日への希望……キノコ
サフィアスの愛しの婚約者、レティーツィアの実家であるシューベルト家は、歴史と伝統ある侯爵家である。
ブルームーン派に属する、門閥貴族らしい由緒ある貴族にして、他の貴族たちからも一目置かれる存在のこの一族は、同時に、古くより芸術に造詣の深い者たちとしても知られていた。
音楽家に絵描き、革細工職人、宝石職人などなど、お抱え芸術家を数多く抱えたシューベルト家では、代々の当主も、その手の趣味を持つ者が多くおり、その分野は様々。
ゆえに、帝都の郊外に建つその屋敷の前庭は、数代前の当主の手による彫刻が無数に飾られた、ちょっぴり変わった造りになっていた。
ミーアたち一行は、その奇怪な庭を通って、シューベルト邸へと向かっていた。
微妙に苔むした彫像を見て、ミーアは思わず眉をひそめた。
「ふぅむ……これは……なにかしら?」
白い石を削って作ったそれは、地面からうねうねと天に向かって伸びた……一見すると、こう……まるで……その……なんだこれ?
「波を石で表現しようとしたような、実になんとも、うねうねとしたフォルムですわね。いえ、この形…………この丸みは……もしや、キノコ……?」
「それは、明日への希望を表現したオブジェです」
声を掛けられ、ミーアはハッと振り返る。っと、そこにいたのは……。
「ミーアさま。ようこそ、シューベルト家へおいでくださいました」
柔らかな、気品に溢れる笑みを浮かべた令嬢、本日のターゲット……レティーツィア・シューベルトだった。
揺れる長い髪、豪奢にウェーブのかかった髪の色は、目に焼き付くような深い青。その髪を、後ろでまとめた少女は、ミーアの前で深々と頭を下げた。
「ご機嫌麗しゅう、ミーア姫殿下」
きびきびした仕草で挨拶する彼女に、ミーアは、スカートの裾をちょこん、と持ち上げて返礼する。
「ご機嫌よう、レティーツィアさん。お元気そうですわね」
ニッコリ微笑んでから、ミーアはもう一度、彫刻に目をやった。
「それにしても、明日への希望……これが。なるほ……ど?」
「うふふ、少し難解ですよね」
口元を手で押さえ、おかしそうに笑うレティーツィアに、ミーアは首を振った。
「いえ、わたくしには、なんとなくですけれど……わかりますわ」
腕組みしつつ、ミーアはそのオブジェを見て……。
――明日への希望、だから、キノコの形に似ているのですわね。ふふふ……。これを作った方とは気が合いそうですわ。
まぁ……なんというか、作品の受け止め方は人それぞれ……なのである。うん。
「しかし、お見事なお庭ですわね。彫刻と、庭に生えた木の融合……。とても不思議な空間ですわ」
ミーアは、庭全体をゆっくりと見回した。
キノコのオブジェ(銘:明日への希望)を始めとした、人間の身長よりも高いオブジェが無数に屹立する合間を縫って、木が生えた感じ……、あるいは、森の木の一部が、キノコのオブジェ(銘:明日への……略)に浸食された感じとでも言えばいいだろうか。
ともかく、なんとも不思議な庭だった。
唸りつつ、辺りを見回していたミーア。その視線が、ある一点で止まる。
「おや……あれは?」
その視線の向かう先、そこは……太い木の根元。そこに生えていたものは……!
「ねぇ、リーナさん。あれ、キノコではないかしら?」
「はい。そうですね。あれはトロキシ茸と呼ばれるキノコです」
なんと、本物のキノコまで生えていた!
「まぁ、やはり……。ふふふ、庭にキノコが生えているだなんて、とっても風流ですわ」
などと言いつつ、ミーアはそのキノコに歩み寄る。まるで、太った魚のように丸みを帯びたフォルム。丸い目と口のような斑点を身にまとったキノコは、実に………実に!
――ふむ、この、じんわりと滲み出るような茶色……。滋味あふれる色合いで、実に美味しそうですわ……! 薄く切ったものを二、三枚まとめてソースにつけて食べたい感じですわね。
この見た目ならば、毒は心配ないだろう! とミーアのキノコ審美眼が訴えていた。
けれど、キノコの見極めは難しい。ミーアだって、そのことは痛いほどよくわかっている。ということで……。
ミーアはシュトリナに目を向けて尋ねる。
「ちなみに、リーナさん、毒はございますの?」
問われたシュトリナは、小さく首を傾げて……。
「毒……ですか」
頬に指を当て、うーん、っと唸ってから、
「いわゆる毒は……ない、と思います」
「ほう! やはり、そうですわよね」
ミーアは、ひとしきりキノコを眺めてから、はほぅ、っとため息を吐く。いったい、このキノコ、どんな味がするのかしら? などと物思いにふけることしばし……。その後、ハッとする!
レティーツィアを放置してしまったことを思い出したためだ。
今日の目的は、レティーツィアを味方につけること。キノコは後回しだ。
んっ、んん、などと咳払いしつつ、
「それはそうと、今日は、突然お願いしてしまって申し訳ありませんでしたけれど、よろしくお願いしますわね」
そうして、ミーアは愛想よく微笑みかける。
――愛妻家を味方につけるには、まず、妻を味方につけよ、ですわ。せいぜい、気に入られるように振る舞わなければなりませんわ。
なにやら、格言めいているような、そうでもないようなことを心の中でつぶやきつつ、ミーアはシューベルト侯爵家の前庭を眺めた。
「それにしても、本当に楽しい趣向のお家ですわね」
「もっと屋敷に近い場所で、彫刻を眺めながら庭でパーティーを開くこともあるんですよ。楽団に来ていただいたりもして」
「なるほど。さすがは、芸術のシューベルト家ですわね」
さりげないヨイショの心を忘れない、ミーアであった。
そんなミーアに、レティーツィアはおずおずと、言いづらそうな口調で言った。
「本当は私も……芸術の一環として、料理の腕を鍛えられればと思っているのですけど……なかなかサフィアスさまが許してくださらなくって……。高貴なる身分の令嬢がすることではないなどとおっしゃられて……」
「あら、そんなこと、全然ございませんのに。ルヴィさんやエメラルダさんだって、前回のお料理会には参加しておりますし。リーナさんだって、今日は一緒に来ておりますわ。それに、先日など、あのラフィーナさまも一緒にお料理会をしたんですのよ?」
そう言ってやると、レティーツィアは、口元を両手で覆って、まぁ! と驚きの声を上げた。
「だから、世間的な外聞など、なぁんにも心配する必要はございませんわ。胸を張って料理をしてやればいいですわ」
心配するのは、外聞ではなく、料理の中身のほうなのだが……。それを指摘する者はここにはいないのだ。悲しいことに……。
――今回は、レティーツィアさんを使って、サフィアスさんの胃袋をもガッチリ掴んでしまおうという策のためにも、彼女のやる気を削ぐような要素は、なるべく消していく必要がございますわね。
サフィアスの胃袋をガッツリ殴りつけてしまわないか、とても心配な状況であった。
「失礼いたします。レティーツィアお嬢さま。サンクランドのシオン王子とルドルフォン辺土伯令嬢がおいでになりましたが……」
報告を受けた途端に、レティーツィアは、なんとも悩ましげな顔をした。それから、ミーアに困ったような笑みを向けて……。
「しっかりと歓迎の準備は済ませてありますけれど……やはり、サンクランドの王子殿下をお迎えするというのは、少し緊張してしまいますね。それに他の家のご令嬢に、羨ましがられてしまいそうです」
「そんなに緊張する必要はございませんわ。これはごく私的な集まりなわけですし。そもそも、あなただって、もう少しすれば、星持ち公爵家の一員になるのですから。引け目に感じることなどございませんわ」
ミーアは小さく首を振ってみせてから、
「さぁ、それよりも、合流して館に案内していただけないかしら? 今日のメインは、お料理を作ることですし」
ミーアの言葉に、レティーツィアは頷いてみせるのだった。