第七十四話 賽(さい)はミーアの手の中に
『ミーア姫の呪い箱』という宝石箱がある。
豪奢な宝石や希少な鉱石をふんだんに使い、極めて高い芸術性を誇るその箱は、数多の持ち主を破滅へと誘い続けた呪いの箱として知られている。
その最初の持ち主が、かの断頭台の姫君ことミーア・ルーナ・ティアムーンであることは広く知られたことであるが、箱を作った者の名は意外に知られていない。
ベルマン子爵――ティオーナの実家であるルドルフォン伯爵領の隣に領地を持つこの貴族こそ、帝国が滅ぶ遠因を作り出した人物であった。
「ベルマン様、やはり、ルドルフォン伯はこちらの要求を呑みませんでした」
「伯爵などとたいそうな名で呼ぶな。頭に"辺土"とつけよ、愚か者め!」
恭しく頭を下げる従者の報告を受け、ベルマン子爵は舌打ちを返した。
「忌々しい田舎貴族めが……」
ことの発端は、実にくだらないことだった。
「それにしても、ベルマン子爵は伝統と格式ある中央貴族であらせられるのに、なぜ、成り上がりの田舎者であるルドルフォン辺土伯のほうが広い領地をもっておられるのか、私には理解できませぬな」
とあるパーティー会場にて、偶然にも言われた言葉。
若干、むっとしつつも、ベルマンは答える。
「辺土伯の領地は、広いとはいえ、ほとんどが農地か森林地帯。広さを誇れるものでもありますまい」
「そうだとしても、でございますよ。あのような土臭い貴族に一つでも負けているものがあるというのはいかがなものか、と。ああ、いえ、子爵が気にならないのであればよろしいのですが……」
反論しようとしたベルマンだったが、確かに、その言葉には一理あると思ってしまった。
あのような、田舎者に一つでも負けているものがあると、そう考えただけで彼には不快だった。
そんな彼の耳元で、その男は囁いた。
「よい知恵がありますよ。子爵。静海の森を開墾すればいいのです」
「静海の森を?」
ベルマン子爵とルドルフォン伯爵との領地の境には、帝国有数の広大な森林地帯が広がっていた。
そして両者の領地の境界線は厳密には決められておらず、大まかにその森を境にして、程度にしか決まっていなかった。
面倒なので、森の中に分け入って、わざわざ決めるということはしていないのだ。
「なるほど、我らの側から森を切り開いていけば、その分、こちらの領地を広げられるということか」
静海の森のどこに境界線を引くかは決まっていない。
極端な話、木を一列残し、そこ以外をすべて開墾してしまえば、自領をそれだけ広げることができるかもしれない。
それは帝国貴族にありがちな身勝手で、さして珍しくもない考え方だった。
彼はさっそく、行動を開始する。
けれど、そこで問題が起きた。
森に住む少数部族、ルールー族が森の開墾に反対し、徹底抗戦の構えを見せたのだ。
「生意気な……」
子爵は、即座に軍務を司る黒月省に訴える。
その結果、日頃の賄賂が物を言い、すぐに百人隊を送ってくれた。
しかしながら、派遣された百人隊長は、
「あくまでも治安維持が目的ですので」
などとのたまって戦いを始めようとはしなかった。
「どいつもこいつも……、私の言うことを聞かぬとは!」
いら立ちを募らせた子爵は、とある贈り物によって状況を打開しようとする。
皇帝の溺愛する皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンへの贈り物によって。
作戦は、とても単純だ。豪勢な宝石箱を作り、その一部に目立たないように、あの森の特徴的な木を使う。
「ユニコーンの角」などと呼ばれるあの森の木を使い、小さな彫刻でもつけておけばいい。
そして言うのだ。
「姫様がお望みならば、同じものをいくらでも作れるのですが……。そのためにはある森を手に入れる必要がございまして……」
そうしてミーアの後ろ盾を得る。
そうすれば帝国軍も動くし、ルールー族を殲滅することなどたやすいこと。
そう考えたのだ。
同時に、子爵は別の作戦も考えていた。
ルールー族の子どもをさらい、人買いに売り渡してしまおうというのだ。そうして、それを帝国兵の仕業に見せかければ……。
逆上したルールー族による攻撃があれば、軍としても動かざるを得なくなるはず。そうなれば、わざわざ宝石箱の完成を待たずとも状況は動く……。
と、そんな彼の作戦だったが、実際に行われることはなかった。
「最近、姫殿下はユニコーンの角の髪飾りを大層お気に入りとか……。毎日のようにつけておいでで……」
そんな声が、子爵の耳に入ってきたのだ。
もしそうならば、なにも宝石箱など作らずとも良い。
ユニコーンの角は、まさに静海の森でとれる木から作られている。
そんなものでよいならば、すぐにでも用意をしよう、と。
かくして、歴史の流れがミーアを間に合わせた。
紛争の始まる直前、いまだ問題がこじれる前の瞬間に。
賽は未だ投げられることなく、ミーアの手の平の上に静かに転がっている。
「ミーアさま、ベルマン子爵が面会に訪れておりますが……」
「あら、どなたかしら? 聞き覚えがないお名前ですわ」
運命は今まさに、来客の姿をとってミーアの前に現れる。
自分が運命の分岐点の真上に立っていることに、ミーアはまだ気づいていなかった。