第五十七話 勝機……実らず!
その日の夜のことだった。
夕食後、突如、呼び出しを受けたルヴィは、父の書斎に向かっていた。
質実剛健、堅固な城のようなレッドムーン邸の廊下を歩くルヴィ。背筋を伸ばし、颯爽と歩くその姿はいかにも凛々しく、すれ違ったメイドたちが思わず、ため息をこぼすほど美しく見えた。のだが……。
父の書斎、扉の前に立ち、ルヴィは、小さくため息を吐き……。
「うう……ミーアさまの狙いが上手くいっていればいいのだけど……」
などと、気弱につぶやく。
「バノス隊長、私に力をください……」
なぁんてつぶやく彼女は、正真正銘、紛れもなく恋する乙女なのである。
それから、気を取り直すように深呼吸して……。
「失礼いたします。お呼びでしょうか、父上」
ゆっくりと扉を開き、部屋へと入る。
中に入ると、父はくつろいだ様子で椅子に座っていた。
「ああ、ルヴィ、来たか。疲れているところを呼び立ててすまなかったな」
「いえ、問題ありません。それよりも、なにかありましたか?」
促されるままに、ソファに腰かけようとしたルヴィだったが……。
「ヒルデブラント・コティヤールとの縁談のことだが、取りやめにすることとした」
突然の話に、ルヴィは一瞬、動きを止め……。
「そうですか」
平静を装いつつ、内心で、「やったぁー!」と快哉を叫ぶ。
まぁ、半ばはわかっていたことではある。大勢の前でやらかしたヒルデブラントを、今さら正式な縁談相手にはしづらいだろうし……。
だが、ルヴィはすぐに心を引き締める。
なにしろ、父、マンサーナは軍略に長けた人だ。縁談の話も、ルヴィに反論の機会を与えずに、奇襲によって了承させてしまったのだ。
今の、縁談取りやめの話も、ルヴィにとっては急な話。こちらが混乱から立ち直らぬ内に、なにか仕掛けてくるかもしれない。
そうして、すぐに冷静さを取り戻したルヴィは、とりあえず必要なことをしておく。それは……。
「父上、ヒルデブラント殿のことですが……あまり、罰などを与えませんように、お願いいたします。コティヤール家との仲も悪化しないよう、お取り計らいいただけると嬉しいのですが……」
「ほう?」
「あの方も、悪気があったわけではないでしょうし……。恋とは抗いがたい感情でしょうから」
後半は、いささか実感をこめて、ルヴィは言った。
「それに、ミーア姫殿下との関係性を悪くしては、本来の狙いとは逆。ここは、どうか、お怒りをお鎮めくださいますよう……」
「わかっている。正式に婚約をしていたわけでもなし。穏便に済ませるつもりであったが……しかし」
と、ここで、マンサーナは静かにルヴィを見つめた。
「あまり残念そうではないな。それに、怒ってもいないか……。やはり、ヒルデブラント・コティヤールは好みに合わなかったか?」
「へ? ああ。いえ、好みに合わなかったということではなく……」
っと、慌てて手を振るルヴィだったが……不意に、ミーアの言葉が甦る。
『何事にも時期がある……』
――もしかすると、私の気持ちを父上に知っていただくのは……今かもしれない。
唐突に、ルヴィは思う。
ここで、自分に想い人がいることを伝えておけば、今後は縁談話を持ち掛けられることもなくなるかもしれない。
ここは先手を打ち、父の動きをけん制することこそが、戦理に適う行動なのではないか?
ルヴィの脳裏、軍配を持ったミニミーアが、行け! 行け! と飛び跳ねていた。
大きく息を吸って、吐いて、もう一度吸って……ルヴィは、言葉を紡ごうと口を開き……。
「やはり、己が力を試したいか……」
父の、想定外の言葉に、ルヴィは思わず……
「……はぇ?」
力の抜けた声を出した。
「いや、みなまで言うな。きちんとわかっている。婚約者の力も、レッドムーン家の力も借りず……。ただ、己が力により、軍内部での栄達を果たすこと……。それこそが、お前の望みなのだろう?」
マンサーナは、どこか遠くを見つめるような目つきで、話を続ける。
「私は、どうやら、お前を助けるつもりで、余計なことをしてしまったらしいな。お前の才気も、覇気も知っているつもりではあったのだが……」
自嘲の笑みを浮かべて、父は首を振った。
「若さ……か。私は、すっかり忘れてしまっていた。己が力を頼りにどこまで行けるか……か。ふふふ……」
「あ、いえ、父上? その、私は……」
なにやら誤解していそうな父に、ルヴィが話しかけようとした時だった。
「失礼いたします」
唐突に、ノックの音。現れたのは、レッドムーン家に長く仕えている執事だった。
「申し訳ありません。ルヴィお嬢さま、皇女専属近衛隊の方がいらっしゃいました。なんでも、トラブルが起きたとか……」
その言葉が遠慮がちなのは、ルヴィがレッドムーン家の令嬢だったからだろう。
星持ち公爵令嬢が、夜間の召集に応じる必要があるのか否か、それは微妙なところだった。が……。
「失礼いたします。父上、この話はまたいずれ……」
ルヴィは一瞬も躊躇うことなく立ち上がる。
自分は皇女専属近衛隊の副隊長だ。隊長バノスの補佐という大切な仕事があるのだ。
彼の信頼を裏切るようなことは、間違ってもできない。
急ぎ、支度のために、自室に戻るルヴィ。
ふと……あれ? 今、父に伝えるべきタイミングを逃したんじゃね? という思いに駆られたりもするが……。
――いや、まぁ……、ここで父上に私の想いを告げても、その後でバノス隊長に想いを告げて断られたら悲惨なことになるし……。きっと父上も怒って、バノス隊長に危機を及ぼすかもしれないし……。それは本意ではないからな……。うん、そうだ!
などと、うだうだ考えた末に、ルヴィは、一つの結論に到達する。
「それに、ミーア姫殿下も蛮勇は良くないと言っていた。そうだ、忘れるところだった。やっぱり、父上は後回し。バノス隊長が先だな。うん」
こうして、恋する赤月の姫は、皇女専属近衛隊の詰め所へと急ぐのだった。