第五十五話 後始末
ルードヴィッヒのもとを離れたミーアは、急ぎ夕兎が繋いである場所に急いだ。そこには、ちょうど、ルヴィの姿もあった。
「ああ、ちょうどよかった。ルヴィさん、少しよろしいかしら?」
「あ、ミーア姫殿下……。なにかありましたか?」
怪訝そうな顔をするルヴィに、ミーアは早速、お願いすることにする。
「実は、夕兎をお借りできないか、と思いまして」
「夕兎を、ですか?」
「ええ。これから、今日の会の締めの挨拶をしなければならないのですけど、夕兎に乗り、会場を移動しながらしようかと思った……のですけど……」
はて? と、ミーアは首を傾げる。
ルヴィのかたわらにいた夕兎に、いつもの覇気がなかったからだ。
「あら、なんだか、すっかり元気を失っておりますわね……」
「ええ。セントノエルでの勝負の名誉挽回、と張り切っていた様子でしたから……」
ルヴィの横で、夕兎が、実に哀れげな顔で、ぶーふ、っとため息を吐いた。
「あら、別に気にする必要なんかございませんのに。夕兎だって十分良き馬ではありませんの」
そう言ってやっても、夕兎は、しょんぼーりと首を垂らしたままだった。
けれど……。
「そうだな。我と蛍雷には及ばぬまでも良き馬には変わりがない。というか、乗り手が逆であったなら、結果は違っていたかもしれぬぞ」
元気の良い声に振り返れば、慧馬がゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
夕兎のそばまでやってきた慧馬は、軽く夕兎のお尻を叩いてから、
「うん。しなやかで良い体だ。よければ今度は我も乗らせてほしい。この馬は、良い馬だ」
夕兎は、まるで機嫌を直したように、ぶるるーふ、っと鼻を鳴らした。
どうやら、生粋のウマイスターである、騎馬王国の慧馬に認められたのが嬉しかったらしい。割と、現金な馬である。
「ところで慧馬さん、ヒルデブラントは?」
「ん? ああ。あの男か……。ああいったことは初めてだったから、返事をするのに少し時間が必要だったが……」
などと言ってから、慧馬はキリリッとした顔で続ける。
「我は火の一族、族長代理だ。そして、同時に、火の一族の戦士でもある。当然、我を娶ろうという者は、我より乗馬に優れ、なおかつ我が兄並に腕が立つ、そのような者でなければならぬ。だから、修行して出直してこい、と言っておいた」
ドドォンっと胸を張る慧馬に、ミーアは、小さく首を傾げる。
「はて……。慧馬さんより乗馬が上手く、あの馬駆さん並に剣が強い……となると、ディオンさんのような方になると思うのですけど、それは大丈夫なのかしら……?」
頬に手を当てて心配そうに尋ねるミーアに、
「…………はぇ?」
慧馬、思わず、きょっとーんと首を傾げる。
「いえ、まぁ、乗馬の腕前は慧馬さんのほうが上なのかもしれませんけれど……剣の腕がお兄さま並となると、なかなか限られてきますわよ? ディオンさんを始めとした剣の鬼のような方たちになってしまうような気がしますけど……ああいった方が好みなんですの?」
それを聞いた慧馬は、途端に、顔を青くして……。
「けっ、剣の腕はそれほどじゃなくっても、いい、かな? そう、乗馬! うむ、やはり、馬に乗る腕前が、我を軽く凌駕するような男でなければ我の相手は務まらぬな……うんうん」
などと、慌てて言う慧馬である。
そんな奴はいねぇ! と思わなくもないミーアであったが、まぁ、よしとしておく。
とりあえず、ヒルデブラントは、慧馬に振り向いてもらうためには、騎馬王国で修行する必要があるだろうし、そこで素敵な出会いがあれば、それはそれで良いからだ。
――これで、ヒルデブラントのことは片付きましたわ。後は……。
ミーアは静かに観客席を見上げながら、小さく深呼吸するのだった。
さて、ミーアが再び馬に乗って出てきたことで、周囲は再びザワつき始める。
だが、その、少し荒れた空気こそが重要だった。
――凪では波に乗りようがありませんわ。多少荒れているほうが、むしろ流れに乗るには良いのですわ。
そう、空気は荒れてはいたが……決して、荒れ過ぎてもいなかった。
その空気を抑えているものこそ、ミーアが乗った馬、夕兎であった。
駿馬勝負においては一歩後れを取った夕兎であったが、依然として、その全身から発する見事な気品は健在だった。
さらに、ミーアがレッドムーン公の馬に乗っているという事実は、両者の関係が良好であることを周囲に示すものでもあった。
ミーアは、皇女専属近衛隊とレッドムーン公の私兵団、さらに、皇帝らがいる観客席と等間隔の位置をゆっくり歩きながら、よく通る声を上げた。
「今日の乗馬大会は、いかがだったかしら? 日ごろのみなさまの鬱憤を解消する、楽しい会になっていればよろしいのですけど……」
それから、ミーアは、両陣営に順番に視線を送る。
「さて、言うまでもないことですけど、今日の勝負は、あくまでも帝国兵同士の勝負。仲間同士が腕を競い合ったにすぎませんわ。ゆえに、勝負が終わった今は、互いの健闘を称え合いたく思いますわ」
そう言って、ミーアは、率先して拍手を始める。それを追い、両陣営の様々な場所から、パチパチ、と遠慮がちに拍手の音が響く。
ミーアは、それを確認してから、
「ふふふ、その反応は当たり前ですわね。勝負である以上、勝ちがあり、負けがある。わだかまりを完全に捨てて、というのはとても難しいことですわ。されど、あえてわたくしは言っておきますわ。今日の悔しさは今日味わえ、と……」
だから根に持つんじゃないぞ、と言いたいミーアである。
「そして、その楽しさと悔しさを存分に味わったなら……美味しいお食事を食べて、美味しいお酒を飲んで、寝て、明日にはきれいさっぱり忘れてしまうことですわ」
つまりは、今日の出来事は、すべて無礼講にしましょうよ、と言いたいミーアなのである。
……そしてついでに、ヒルデブラントのやらかしも、できれば、無礼講で済ましたいな! と主張したい、ミーアなのである!
「勝負が終わった今となっては、いろいろな感情はあっても、すべてノーサイド。わたくしは、こう主張しておきますわ。だって、みなさんは、すべて、共に大陸に住まう民。みな同様に、我が愛すべき臣民ですもの」
こうして、ミーアは、両陣営の間に亀裂ができることを、あらかじめ防いでおく。
なにしろ、レッドムーン公の私兵団と皇女専属近衛隊は、どちらも、大切な戦力だ。いざという時には力を合わせて、守ってもらいたいわけで……。
だから、今日のことは、すべては無礼講。美味しいものを食べて、忘れちまえ! と高らかに言うのだ。
そして……ミーアのそんな言葉は、不思議と、両陣営の兵士たちの心に沁み込んでいった。
つい先ほどまでは、互いに白熱の応援を送り、時に悔しく、相手を憎らしくも思ったものだったが……気付けば、後に残ったのは、今日を楽しく過ごしたという思い出だったから。
それは、ひとえに順番の妙だった。
力を尽くした戦いがあり、みなが目を奪われるような、見事な月兎馬同士の競争があった。
勝負の満足感に浸った後、最後の締めは、勝ちも負けもつかない、ミーアのホースダンスだったのだ。
ちょっぴり微笑ましくも、見事なポニプリダンスに、兵士たちは思ったのだ。
「ああ、なんかいろいろあったけど、なんだかんだで楽しかったな……」と。
途中で、唐突な告白があったり、ミーアに危機が迫ったり、と、いろいろなアクシデントが起きたような気がするが、思い出せばすべては楽しかった、と……。
やがて、誰に促されたわけでもなく、両陣営の兵士たちは歩み寄り、握手をしては、互いの健闘を称え合った。
さらに、そこにタイミングよく、ルードヴィッヒが手配した酒樽が運ばれてきて、場は大盛り上がりとなった。
死力を尽くし、争い合った者たちが、勝負が終わった後には、互いに酒杯をぶつけ合う、これこそが、後の世で、ミーアピックが平和の祭典と言われる所以であった。
そうして、酒を飲み交わした者たちは共に誓い合うのだ。
またやろう、と。
この楽しくも、血が沸き立つような祭りを、またやりたい……。
だからそれまで壮健でいろ、と。
かくて、後顧の憂いを断って後、ミーアはレッドムーン公のほうへと馬首を向ける。
いよいよ、最後の仕上げの時が訪れようとしていた。